赤い薔薇の君

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 呼び出し音が五回ほど鳴って、通話が始まった気配がする。 「あ、もしもし、透也?」 『はい』  透也の声だ。そんな当たり前のことに、なぜか少し安心する。 「さっき一応色々終わって、これからそっちに行こうと思うんだけど」 『いつでもどうぞ』  電話を通しているせいなのか、透也の声からは、何も感情が読み取れない。これから頼みごとをしようという身には、中々厳しい状況だ。  俺は一つ深呼吸した。 「えっと、今日さ、あの大家と、明日からの部屋について話したんだけど」 『うん』 「結論から言うと、俺が明日から住める部屋はないってことらしいんだよね」  電話の向こうからは、何も返ってこない。  驚いているのか、呆れているのか。 「それで、その、図々しい話で申し訳ないんだけど、昨日言ってた話に、乗らせてもらえない、でしょうか」  言ってしまった。もう後には引けない。 『昨日の話って、ルームシェアのこと?』 「そうです」  思わず敬語になってしまう。 『良いよ。そもそも、俺が言い出したことだろ』  透也の返答は、あっさりしたものだった。何だか逆に不安になる。そのうち、悪い奴に騙されたりするのではないだろうか。 「ありがとう。本当に助かる」 『こっちも金欠だから。じゃあ、詳しい話は帰ってきてからで』  帰ってきてから、という言葉に、なぜか泣きそうになる。いよいよ頭がおかしくなってきているのかもしれない。 「うん。よろしく」  スマートフォンを耳から離す。通話終了 峰岸透也、という文字列を見て、急にこの状況に現実味がわいてくる。  やっぱりおかしいよなあ、とは思うけど、これ以外にどうするべきだったのかわからない。  でも、そんな風に思いながら、俺は透也の部屋に帰るのを楽しみにしている。帰るのが楽しみだなんて、いつぶりの感覚だろう。  そういえば、昨日もこんな気持ちになったっけ、と思いながら、ハンドルを握った瞬間、俺は重大なことを思い出した。  凍えるような寒さ。闇の中、めくられた布団。動悸。それから、透也の体温。  人間は、雨風がしのげれば眠れるわけではないのだ。  俺が使っていたマットレスは、ベッドと一緒に、前の部屋に置いてきた。  布団、いや、寝袋ってどこに売ってるんだろう。スポーツ用品店か、ホームセンターだろうか。このあたりに、大きなスポーツ用品店を見た覚えはない。  近くのホームセンターを検索する。車で十分ほどのところに、一つ見つかった。  助かった、と思ったのも束の間、営業時間の欄を見て、俺は凍りついた。 『10:00~20:00』  時計は、十九時四十分過ぎを指している。  急いでアクセルを踏み込む。幸い、道はすぐにわかった。  知る限りの裏道を使い、なんとか十分足らずで店の駐車場に滑り込んだ。  転げるように店に入って、店員を探す。五分近くもかかって、やっとあまりやる気のなさそうな、中年の店員をつかまえた。  店内には、蛍の光が流れはじめた。 「あの、すみません」  思いがけず大きな声で呼びかけてしまったせいか、店員は驚いたように俺を見る。明らかに迷惑そうな顔だ。 「お客様、閉店ですので」  今日はもう、と言いかけるのを遮って、 「寝袋ってどこですか」  と問いかける。店員はまた何か言いたげに口を開いた。 「今すぐ案内してください。じゃないと、俺、今日寝るとこがないんです」  言ってしまってから、自分がかなり誤解を招くことを言ったことに気づいた。まあでも、間違ったことは言っていない。  俺の言葉で、店員の表情が変わった。哀れむような視線が痛い。 「あ、はい、寝袋ですね。こちらです」  俺は連れていかれた売り場の、ちょうど真ん中くらいの値段の寝袋を持って、もうすでに片付けが始まっているレジに向かった。 「あのこれ、よろしかったら」  店員が、そう言ってこの店の求人チラシをレジ袋に入れた。  勘違いされているのに、何も間違っていないのが悲しかった。
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