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二十二時過ぎにバイトが終わると、賞味期限が近付いて値引きされた弁当を買って、家路につく。
無意識に、川を避けて通るルートに進みそうになって、慌てて引き返した。
当たり前だが、やっぱりまだ慣れない。
アパートに着いて部屋の方を見上げると、薔薇の花が部屋の明かりに照らされている。少ししおれてきただろうか。
軋む階段をゆっくりと上る。
「あ、おかえり」
キッチンに立つ透也がこちらを振り返った。なにやらフライパンの中身をかき混ぜている。
「ただいま」
後ろを通りながら覗き込むと、フライパンの中身は野菜炒めだった。おいしそうな匂いに混ざって、シャンプーの匂いがする。
先に弁当を食べるか、風呂に入るか一瞬迷った後、先に入浴することにして、スーツをハンガーにかけた。今日あった色々なことを、汚れと一緒にすぐに洗い流してしまいたかった。
少し熱いくらいのシャワーを浴びる。ちょっと期待したが、小さな湯船は空だった。
風呂から上がると、透也はスマホを片手に食事をしている。
俺も買ってきた弁当を電子レンジで温めて、透也の向かいに座った。
「今日もバイトだったの」
俺が声をかけると、透也はスマホを伏せた。
「いや、今日はバイトはなし。学期中は、基本的にバイトは家庭教師で、火、木、土。テスト期間中は休ませてもらって、長期休みの時は塾講もやってる」
「ああ、じゃあ明日はバイトなんだ。何時まであんの」
「平日は七時から九時までで、土曜は五時から七時まで。でも、大概はその後夕飯を出してくれるから、帰るのはもっと後になるかな」
きっとお母様方からの覚えが良いんだろうなあ、と思いながら長い前髪から覗く切れ長の目をぼんやりと眺める。
睫毛の影なんてものが存在することを、俺はこの時初めて知った。
「バイトがない日は自炊してんの」
「まあね。そんな大層なものじゃないけど」
「いやあ、十分自炊だと思うよ。俺は全然料理したことないから、尊敬するよ」
透也はちょっと照れたように視線を下げた。
「じゃあいつもコンビニ弁当なわけ」
「まあ、それかカップ麺かな」
透也は呆れ顔で一瞬俺を見ると、すぐにまた視線を落とした。
「そういえばさ、昨日、細かいことは今日決めるって言ってたけど、それってその、なんて言うか、」
正直なところ、俺は透也との距離をいまいち掴み切れないでいた。だから、この部屋で俺がどう振る舞うべきなのか、彼に決めてほしかった。
透也はああ、とか何とか、そんな声を漏らすと、ペットボトルの茶を一口飲んで、俺を見上げた。
「そうだな、まず、家賃とか光熱費は折半」
「それはそうだろうね」
透也は首を傾げて、何かを考えるような素振りをする。
「あとは、まあ、洗濯とか風呂は各自で。風呂の掃除とかは後で入った方がすれば良いんじゃない。洗濯干すのは、晴れの日はベランダ、雨の日は部屋干し。ベランダのすぐ内側に、紐を渡してあるから、それ使って」
つまり、本当にただ間借りしている、という感覚で過ごせばよいということらしい。まあ当然と言えば当然だが、なんだか少し寂しいような気がした。
俺は何度も言うか言わないか何度も迷って口を開けたり閉めたりして、結局透也が立ち上がって食器をシンクに運ぶ頃になって、意を決して声を出した。
「あの、ダメだったら良いんだけどさ、時間が合う日は一緒に食事することにしない?」
透也は立ち止まって俺を振り返った。
「いいよ。月曜は一限あるから、日曜はあんまり遅かったら先食べるかもしれないけど」
あまりにすんなり受け入れられたものだから、なんだか拍子抜けしてしまった。
「うん、わかった。俺のシフトは結構週によってまちまちだから、後でシフト表送るよ。平日は面接とかあるけど、夜になることはないから」
「了解」
水の音が聞こえる。
明後日の夕食を楽しみにしている自分に気づいて、そういえば俺は透也にお近づきになるためにここに来たのだったということを思い出した。
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