赤い薔薇の君

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 さすがに警察のご厄介になるようなことをしたことはないが、大抵のことには不真面目な質である。そんな俺だが、歩きスマホはしない主義だ。三年前、まだ暢気な高校生だった頃、買ったばかりのスマホを見せびらかしていた同級生が、道のくぼみに足を取られて骨を折ったのを見て、俺はこんな無様な姿はさらすまいと心に決めた。  しかしこうも退屈な道のりでは、メッセージのチェックでもしながら歩きたくなるのも頷ける。平日の昼下がり、住宅街の中を通る細い道には、車も人もほとんど見えない。  つい二か月ほど前、会社員をやっていた頃は逆に、忙しすぎて何度かスマホを見ながら人の行き交う大通りを歩かざるをえなかったことを思い出す。たった二か月でずいぶんな変わりようだ。  会社員だった頃を思い出すと、ふと誰かに会いたくなった。コンビニのバイトは昨日の深夜から今朝までで、次は明日の昼からだ。それまでは誰とも会う予定がない。こんな時間に連絡して会ってくれるような知り合いもない。  遠回りになっても、せめて人通りの多い道を通って帰ろう。  俺は来た道を引き返すことにして、体の向きを変えた。二ブロック先に、大通りが見える。  俺の視界を、見覚えのある顔が横切った。  黒い髪、白い肌、長いまつげ。  俺は思わず小走りになり、彼の姿を追った。裸眼で二.〇の視力に感謝する。  再会はそう遠くないだろうと思ってはいたが、それがまさかこんな形になるとは思っていなかった。  少し速度を緩めて角を曲がる。前方約二十メートル。多分次の信号で追い付くだろう。俺は走るのをやめてことさらにゆっくりと歩き出した。  反射的に走り出したが、彼に追いついてどうすれば良いのか。話しかけても良いのだろうか。そんなことをしたら余計遠ざかってしまうのではないか。  そんなことを考えている間にも、彼との差はどんどん縮まってゆく。柄にもなく心臓がうるさい。  ああもういいや、考えても仕方ない。あの川沿いの道はバイト先への近道なのだ。いつまでも遠回りするのはごめんだ。  思っていた通り、赤信号に立ち止まった彼に追いつく。俯きがちに立つ彼が、俺に気付く様子はない。わざと小石を蹴って音を立てる。狙い通りに彼が俺を見た。あっ、と口が動く。 「どうも、こんにちは」  再び下を向かれる前に声を掛ける。自然な笑顔も忘れない。彼の手に握られたホームセンターの袋に目がとまる。肥料という文字が透けて見えている。 「それ、薔薇の肥料ですか?」  彼は一瞬ぎくりとしたように身を固くして目を逸らした。何かまずいことを聞いただろうか。 「まあ、そうです」  自分で話しかけておいて何だが、正直答えが返ってきたことに驚いた。  信号が青に変わって、二人で並んで歩き出す。彼は横目で俺を見た。どこまで付いてくる気だ、とでも言いたげな目だ。 「俺もあのアパートの近くに住んでるんですよ。ほら、あの川沿いの道の突き当たりをちょっと右に行ったとこに、古いアパートが何軒かあるでしょ。あの内の一つです」  実のところ、俺のアパートもなかなかのボロアパートである。 「そうですか」 「すみません、急に話しかけたりして。俺、このあたりに知り合い全然いなくて。良かったら、友達になってくれません?」  我ながら怪しい提案だ。案の定、彼は驚いたようにこちらを見た。 「やっぱり駄目ですかね」  少し困ったような笑みを作って見せる。 「いや、別に良いですよ」  彼はそう言って前を向く。驚いた表情はもう消えている。  予想外の答えだ。てっきりもっと手こずると思っていた。 「俺、南雲慧っていうんですけど、あなたは?」  これまで、こんな不自然なやりとりをしたことがあっただろうか。なんだか英語の教科書みたいだ。 「峰岸透也」 「峰岸さんかあ。おいくつなんですか?」 「二十」  はたち、でもなく二十歳、でもなく、ただ二十とだけ言うのが、何となく彼らしい気がした。 「ああなんだ、タメじゃん。大学生?」  俺は早生まれだから、多分自分の方が一学年上だろうと思ったが、それは黙っておく。 「そうだけど」  タメ口で返ってきたことに安堵した。 「やっぱり何か植物の勉強してんの?」 「いや、文学部だよ」 「へえ、文学」  何と返せば良いのか全くわからない。本を読むのはそれほど嫌いではないが、下手なことを言うと墓穴を掘りそうだ。  峰岸のアパートまでもうほんの少し。何か話さなければ。 「そんなに薔薇が気になるなら、見にくれば?」 「え?」  わずかな沈黙を破ったのは、峰岸の方だった。 「何か急ぐ用事があるわけじゃないなら、寄って行けば? 通り道だろ」 「いいの?」  こんな怪しい奴を部屋に入れて、とは言わなかった。 「もうすぐ花も終わりかもしれないから、見るなら早い方が良い」  俺は峰岸の顔を盗み見たが、そこからは何の感情も読み取れない。峰岸が何を考えているのか全くわからなかったが、せっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。 「そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えて」  予想外の展開に、またしても心臓が騒がしくなった。
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