赤い薔薇の君

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 思っていたより広く、そして何もない部屋だった。畳んだマットレス、小さなテーブルとノートパソコン、その横に置かれた教科書類、腰ほどまでしかない本棚、衣装ケース。 それがこの部屋のほぼ全てだ。 「適当に座って」  座るところがないのも困るが、ありすぎるのも困る。少し迷って、俺はキッチン側の壁にもたれて座った。すぐ後ろで峰岸が冷蔵庫を開けて、あ、と困ったような声を出した。 「ごめん、何にも出すものがない」 「ああ、気にしないで。飲み物くらい持ってるし」  俺はさっきコンビニで買った缶コーヒーを掲げて見せた。 「ほんとにごめん。水道水を入れるコップすらない」  コップがなくて良かった。 「大学の友達とかが来たりしないの」  俺にはいまいち大学生活というのが想像できないが、なんとなく授業が終わったら、誰かの家に遊びに行ったりするものではないのだろうか。 「家に呼ぶような友達なんてないから。それにここ大学遠いし」 「そう言えば、峰岸君はどこの大学なの」  少し迷って、むず痒いが君付けで呼ぶことにした。峰岸は県内の国立大の名前を答える。確かにここからは遠い。ぎりぎり自転車で通えるだろうか。 「すごいね、エリートじゃん」 「別に。私学に行く金がなかっただけ」  峰岸はコップに入れた水道水を一口飲むと、真っ直ぐベランダに向かった。窓を開けると、サッシが軋む。きっと今も、道にこの音が響いているのだろう。  窓から入った風が峰岸の髪を揺らして、うなじにある小さなほくろが見えた。見てはいけないものを覗き見てしまったように感じて、とっさに目をそらした。 「見ないの」 「えっ」  一瞬扇情的な台詞に聞こえてうろたえたが、よく考えれば薔薇のことだ。今日俺はここに薔薇を見に来たのだ。 「ああ、見る見る」  窓の前に立つと、冷たい風が体に当たる。もうすぐ冬だ。  峰岸はベランダに出ると、鉢を引きずって、俺の前に置いた。俺はスリッパがないから、ベランダには出られない。  峰岸は鉢の側にあったじょうろを掴むと、部屋に入る。  前に見た時より、少し花が減っただろうか。 下から見ていた時はけばけばしいと思っていた花も、こうして近くで見ると綺麗だと感じる。みずみずしく、鮮やかな赤は、血を思い出させた。花びらに爪を立てれば、じわりと血が流れ出すのではないか。 「花、好きなの」  峰岸がじょうろに水を汲んで戻ってきた。水をやるのかと思って横に避けたが、峰岸はじょうろを床に置くと、さっき買ってきた肥料の説明を読み始めた。 「いや、全然。花なんて薔薇と桜とチューリップくらいしかわからん」  峰岸は俺を見て不思議そうに首を傾げる。じゃあなぜ自分の薔薇にこうも執着するのかと言いたいのだろう。 「峰岸君は薔薇が好きなんでしょ?」 「まあ、嫌いではないけど、そこまで植物に興味はない」  俺はその返答に驚いた。 「じゃあなんで育ててんの」  こんなボロアパートで、という言葉は飲み込んだ。 「人に、もらったんだ」  峰岸は肥料の袋を開けて、中に入っているスプーンを取り出した。 「へえ、彼女とか?」  峰岸の動きが一瞬止まる。 「そんなんじゃないよ」 「ふうん。じゃあ、好きな人?」  峰岸は大きく首を横に振る。長い前髪と眼鏡のせいでよく見えなかったが、薄く頬が赤らんでいるように見えた。 「だから、そんなんじゃないんだ。お世話になった人なんだよ」 「どんな人なの?」  峰岸が肥料をスプーンですくって、じょうろの水に溶かす。手が小さく震えているように見えたのは、勘違いだろうか。 「大人の人だよ。もういいだろ、こんな話」 「大人なのに、一人暮らしの男子大学生に薔薇の鉢植え?」  詮索しすぎだという自覚はあった。でも何故か止められなかった。峰岸は俺の視線を避けるように、再びベランダに出て行く。 「薔薇のある家に住むのが夢だって話したことがあったんだ。俺はそれぐらい金持ちになりたいって意味で言ったんだけど、薔薇が好きだと思われたみたいで。ちょっとずれた人なんだ」  俺は一つの単語に気を取られて、内容が頭に入ってこなくなった。 「俺?」  薔薇に水をやっていた峰岸が俺を振り返る。怪訝そうに俺の顔を見つめた後、俺の言葉の意味が分かったらしく、峰岸は笑みを浮かべた。嘲ったような、冷たい笑みだった。 「僕、とでも言うと思った?」 「峰岸君、文学少年っぽいから」  整った青白い顔に、パーマもカラーもしたことがなさそうな黒髪、紺のセーター、黒縁の眼鏡、国立大の文学部とくれば、そう思うのも無理はないだろう。 「あいにく、そんなお上品に育ってないよ。文学だってそこまで好きでもないし。入れそうだったから入っただけ」 「そっか」  いつの間にかすっかり日は暮れて、街灯が峰岸を照らしている。 「寒いからもう閉めよう」  水をやり終えて部屋に戻ってきた峰岸がそう言って窓を閉める。  横顔には、もうさっきの笑みはない。どこか張り詰めたような無表情が、今日は一層綺麗に見えた。
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