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初めて来た家で電話をするというのは、なんとなく落ち着かない。
『あのう、南雲さん、落ち着いて聞いてほしいんですが』
そう言う大家の口調は、今まで聞いたことがないくらい丁寧だ。ものすごく不吉な予感がする。
「何ですか」
『その、何と言いますか、南雲さんの上の部屋で、水漏れがありまして』
「水漏れ」
つまり?
『はい、それで、そのう、ですね、南雲さんの部屋にも水が入っているようでして。ちょっとその、ご確認をお願いしたい、ということなんです』
失業した日も俺は会社員だったとしたら、人はあまりに驚くと声が出なくなる、というのは、会社員時代に得た貴重な知識の一つだ。
『南雲さん? 聞こえてますか?』
無反応の俺に業を煮やしたらしい大家の声が、やたら遠く聞こえる。
「ああ、はい、聞こえてます」
『今夜は、いつ頃お帰りになりますかね』
「ちょうどこれから帰るところです」
『あ、そうですか。それではお待ちしております。お部屋の前におりますので。よろしくお願いします。補償とかその辺りのこともその時にお話しします』
そう言って電話は切れた。今日寝るところがあるかどうかも危ういというのに、妙に冷静な自分に驚いた、のと同時にスマートフォンが手から滑り落ちる。前言撤回。相当動揺している。
「どうしたんだよ、さっきから」
俺に気を遣ったのか、洗面所に入っていた透也が部屋に顔を出す。
「なんか、わりと大変なことになったっぽい。アパートが」
「火事とか?」
火と水では真逆なのに、当たらずとも遠からず、と思ってしまうのはなんでだろう。
「いや、水だよ。部屋が水浸しになったって」
「本当に古いアパートなんだな」
「ああ、うん」
透也が俺のスマートフォンを拾って、俺の手に押しつける。
「見に行ってもいい?」
「は?」
「いや、他人事じゃないかもしれないから」
透也は天井を見上げた。ところどころにしみが滲んでいる。天井までは張り替えられなかったのだろう。その姿勢のまま透也は話し続ける。
「それに、何か手伝えるかもしれないし。知り合いいないんだろ」
面白がっているのかと思ったが、心配してくれているらしい。ありがたいが、ほとんど初対面の人間にそこまでしてくれるのも逆に怖い。
なんでそこまでしてくれんの、と言いかけてやめる。それを聞いてしまったら、これで終わってしまうような気がした。
「じゃあ、まあ、よろしく」
透也は俺に視線を戻してうなずいた。相変わらずの無表情。何を考えているのか分からないが、それでも悪意があるようには思えないのは、綺麗な顔に騙されているのか、それとも本当に透也には善意しかないのか。
仮に悪意があったとしても、失う物も特にない。それなら、彼を信じてみるのも良いだろう。
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