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「副社長を呼べ!」
「社長っ!」
「大丈夫ですか、社長」
「副社長を、山田君を今すぐ……」
私は膝をついて、ゆっくりとその場に倒れた。
起き上がろうとしても身体に力が入らず、どうしようもない。
この感覚には覚えがあった。
もうずいぶん前のことだ。かつて私は一度死にかけたことがある。魂が体から抜け出そうとするような、そんな感覚。
今まさに自分が死と直面しているのがわかった。
「吾妻さん、救急車を呼んで! 早く」
「如月さんが今、電話しています」
「副社長は?」
「今日は本店に出ているので、あっ、今連絡取れました。すぐにこっちに向かうそうです」
「飯島社長っ、気をしっかり持ってください。もうすぐ山田副社長が来ますから」
「う、うう……」
気を抜けば身体から魂が離れそうになる。私を取り囲む社員たちの声のおかげで、どうにか私は意識をこの場に留めていた。
まだ死ぬわけにはいかないのだ。
この会社は、今が正念場なのだから。
私がいなくては。
死を前にした人は、過去の出来事をまるで走馬灯のように思い出すという。
ちょうど今の私のように。
必死にこの世に留まりながら、脳裏では過去の思い出の場面が次々と流れていた。
◇◆◇
私はこの会社の発展のために人生の全てを注ぎ込んだ。
創業者だった初代社長の時代、最初はほんの小さなアパレルショップだった我が社。けれど店舗を一つ、二つと増やすたびに徐々に客が増えた。
派手派手しいブランド物に比べて、シンプルだが安くて着心地のいい我が社の服は時代に合っていたのだろう。あっという間に全国に店舗を広げ、大きな会社になっていった。
海外にも工場をいくつも作り、まさにこれから大企業になろうという時、本社で指揮を執っていた社長が急逝する。その時ちょうど社長のすぐそばにいたのがこの私、飯島礼二だった。
当時の私はまだ営業部長だから、経営に大きく口出しすることはできない。会社のために毎日必死になって働いて、働いて、働いた。
仕事するのは全く苦にはならなかった。私はこの会社を本当に愛しているのだ。
そんな努力が実り、初代社長の死から十年も経たないうちに社長になる。
全てはこの会社をもっと繁栄させるために。
社長になった私の仕事は多かった。
もちろん会社を大きくすること、安定した経営を心掛けるのも大切だ。けれど何よりも大切なのはやはり人材だろう。
若くて力強い新入社員たちの中から、見どころのある者を何人も抜擢して育て上げた。
当然、年老いた幹部たちの反発は小さくない。時には注意深く、時には大胆に人事を組み立てる必要があった。
紆余曲折あったが、おおむね上手くいったと思う
今、ここで声をかけてくれているのは、私が育て上げてきた若い部下たちだ。
しっかり育って、会社を動かす原動力となってくれている。
若手の中でも副社長の山田君は特別に目立つ存在だった。
いわゆるイケメンではないが悪相でもない、安心感を抱かせる容姿。健康で、体力もある。酒やギャンブルやくだらないゲームなどの娯楽にうつつを抜かすこともなく、真面目で仕事一筋なところも私に似ていて好感が持てる。
一時期、彼女ができたとかで残業を断ることが何度かあった時は心配した。ひそかに調べてみれば、派手好きで大してとりえもない女だった。そんな彼女は、裏から手を回し顔の良い男を宛がえばすぐに山田君を捨てた。どうしようもない悪女。早いうちに追い払えて、山田君の為にも良かった。
山田君は今年でたしか三十八になる。未だ独身だが、今後いくらでも良い縁が巡って来るだろう。
何しろ彼はこの会社の副社長であり、次期社長の一番の候補なのだから。
山田君の良いところはまだある。彼には他県に両親がいるけれど、疎遠で里帰りも殆どしない。両親の面倒は他の兄弟が見ている。親兄弟に大きな借金は無いようだから、山田君に迷惑をかけることはないだろう。
実家に気を取られずに働けるのは良い。
私が見込んだ者だけあって、山田君の素晴らしいところは枚挙にいとまがない。強いて欠点を挙げるとすれば、優しすぎるところだろうか。経営者は時に冷血と言われるほど厳しい判断をしなければならないことがある。彼にそれが出来るかと問えば、無理だと答えるしかない。
とはいえそんな性格上の問題はいずれ解決する。
彼は私が見込んだ男なのだ。
◇◆◇
「社長、聞こえてますか」
「うぅ、ああ……聞こえ……てい……る」
耳元で叫ぶ社員たちの声に我に返る。脳裏で再生されていた過去はいったん終了し、目の前で心配そうに見つめてくる社員たちが見えた。
「山田副社長が来ました。ここに居ます」
「社長! 山田です。しっかりしてください」
「おお、おおう。間に合ったか……山田……君」
「もうすぐ救急車も来ますから。目を開けて。この会社にはまだまだ社長の力が必要なんです」
「あ……あ。そう……だな」
そうだ。
この会社にはまだまだ私の力が必要なのだ。
「山田君、私の手を……手を……」
「飯島社長、しっかりしてください」
山田君が私の手を握る。冷えかけていた左手に人の手の温もりが伝わった。
「山田君、君が……これからは……君がこの会社を……」
「飯島社長っ。飯島さんっ!」
「……」
ああ……。
必死に繋ぎ止めいていた魂が体から離れる。
身体の奥深く、ほんのり温かさの残る場所から離れた魂は、熱を求めて左手に向かい、その向こうにある若々しい身体へと染み込んだ。
この会社には、まだ私が必要なのだ。
山田君のように優しい男には会社経営は難しいだろう。
ほら。今だってすぐに私に押し負けてしまう。
山田君の魂がどこに消えたのかは知らないが、この身体にはもういない。二十年前に本物の飯島君の魂が消えたように。
私はこの会社の創業者であり、会社を発展させる義務がある。もっともっと時間が必要なのだ。
若くて健康的な山田君なら、今までよりもさらに精力的に働けるに違いない。
飯島君の時は営業部長からだったから社長に戻るまでが大変だったが、山田君はすでに副社長であり、私が死ねばまず間違いなく社長になる。
その為の下準備はしておいたからな。
魂はあっという間に新しい身体に馴染んだ。
「救急車が到着しました」
「ああ、社長をよろしくお願いします」
「山田副社長……」
秘書の如月君がハンカチを差し出した。
「涙を」
「ああ……泣いていたのか」
山田君、私のためを思って泣いてくれたのか。
君の想いはしっかり受け止めた。涙をぬぐって、如月君にも礼を言う。
君たちの為にも、私はもっともっと頑張らないとな。
「吾妻く……さん、緊急の役員会を招集します。手配を。如月さんは社長に付いて病院に。経過は私に連絡してください。飯島社長には身寄りがありませんから、社葬の準備もしなくては」
「は、はい」
「こんなことがあっても仕事は待ってくれません。店は今も動いているのだから。社長ならきっとそう言うでしょう。私は業務に戻ります。連絡は逐一お願いします」
私は若くなった身体で弾むように歩き、慣れた手つきで社長室のドアを開けた。
【了】
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