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 自治区内に労働者が集団で暮らしている地域がある。私と朱莉のような予備提琴奏者はC.Hで暮らしているわけだが、自治区で労働に従事することと引き換えに生活を保護されている成年済みの労働者達が暮らしている。私達は彼らと会話したり、何か商売をしたりすることはない。自治区内で彼らは労働者達のコミュニティを作り、昨日のような演奏会などにも彼らはやってきては汚染された精神を浄化し、自らの住まいへと帰っていった。それは月に一度のイベントだった。先日の演奏会の後から一週間程経過した今日も土曜日である。あれ以来、朱莉には会っていない。あの演奏会の帰り道、帰り道といっても数百メートル離れた宿舎に戻っただけだが、わずかな明かりしか点らない暗い夜道で朱莉の横を歩いていてが、朱莉がなぜあの演奏を聴いて泣いたのか私に聴くこともできなかったし、朱莉からも話すことはなかった。朱莉と話すことはなく、一週間が経過していた。食堂でも会うことはなかった。すでに土曜日が始まっている。 C.H外へ出ることは週に一度か二度であり、いつも決まったパン屋で、好きなパンを買うだけである。今日はいつもとは違う道を自転車で走る。私は出かけることにした。特に行くあてはないが、休みの日に家に籠っているのは好きではない。C.Hの大仰な門を出て、あてどなく自転車で走る。風が冷たくて気持ち良い。わずかばかりの小銭が小脇のポーチに入っている。十数分走っていると、自治区内の労働者の暮らす地区にやってきた。その近くを一人で自転車に乗って、走っていた。そこは肉体労働者が自らの肉体的価値を切り売りしているような場所である。めったに私は来ることはない場所で、昔、朱莉と一度通ったことがあった。人口は減っても自治区を維持するための最低限のインフラはもちろん必要であり、労働人のリソースは極めて重要であった。私には詳しいことはわからなかったが、C.Hの維持には労働者の労働力が必要であり、労働者にも時折のC.Hでの休息が必要なのだった。それは持ちつ持たれつという相補的な関係であった。 一週間前の全体訓練後から訓練場で朱莉の姿を見ていない。個別訓練場に来ていないだけで、1stの組訓練には出席しているのかもしれないが、食事時にも彼女を見かけることはなかった。朱莉と顔を合わさない日々が三週間程続いた。その日は訓練は休みの日だったが、朱莉からの連絡もないので昼過ぎまで自室でだらだらしていたら腹が空いてきたので、いつも朱莉と行っていたパン屋に行くことにした。いつもは気持ちの良い川沿いの道を二人で自転車に乗っていたが、今日は一人である。早くパンを買って戻ってこようとして、いつもは通らない裏道を通って向かった。その裏道の路地はシャッターのしまった商店が数軒たち、人が住んでいるのかわからないような崩れかかった住居と荒れ放題の庭地が続いたりしていた。この土地に越してきて二年になるがこんな場所もあったのだと、自転車をゆっくりと走らせてしげしげとその景色を眺めていた。目の前に一本さらに細い意味が伸びていた。カーブミラーが設置されて車一台ぎりぎり通ることができそうな細い道である。その道の突き当りに小さな看板が立っていた。薄汚れたその看板の店がなんなのかその時はわからなかったが、驚いたのはその店に入ろうとしていたのが朱莉だったことである。声をかけようとその細い道へ自転車を進めようとしたが、さらに驚いたのは朱莉の隣には吉田上長がいたのである。二人がその古びた店内へと消えていったことを確認して私は静かにその店の前まで行った。古びた旅館のようだったが入口の窓はすりガラスになっていて内側の様子を見ることはできない。薄く消えかかっていた看板の下には小さなプラスチック製の板が張られていてこちらも看板に引けを取らぬほど消えかかっていたが、宿泊四千円という文字が見えた。やっと私はそういう場所かと合点した。その後、何を考えていたのかあまり覚えていないが学舎の自室に戻ってから食べたハムとチーズの挟まったサンドイッチは無味乾燥であり、どろりと溶けかかったチーズの触感だけは覚えている。 感度の低い私にもあの状況を理解することはできた。次の日、食堂で陰璃は朱莉を見つけ、声をかけた。ただ、昨日見た吉田と一緒にいる姿を朱莉に聞くことはできなかった。 次に朱莉にあったのは学舎の食堂だった。一人で夕食を食べていると、隣に朱莉が座った。あの日目撃して以来、初めての会話だった。 「ひさしぶり。元気?最近あまり見かけないけどどうしたの?」 私にしては珍しく自分から話かけると、朱莉はちょっと調子悪くて訓練に参加できなかったんだと言った。いつになく弱気な様子だった。 「長期間休むかもしれないけれど気にしないでね。大丈夫だからさ。」  あの日のことを話そうかどうか迷いながら、定食の焼き魚の身をほぐしては、口に運んでいた。二人で魚をほぐしていると会話はとぎれた。あの日、吉田上長とあそこでなにをしていたの?それだけの言葉が私には口に出すことができなかった。一番仲の良いと思っていた朱莉にも私はそれを話すことはできなかった。私よりも後に席に座った朱莉の方が魚を早く食べ終えて、皿の上にはきれいに身を外された骨だけが残された。 「じゃあね、また一ヶ月後の合同訓練でね。」  そういって朱莉は席を立った。うん、じゃあねと私も言った。これが朱莉との最後の会話になってしまうような予感がした。その予感は当たらずとも遠からずといった結果だった。朱莉はC.Hから姿を消した。吉田と共に。それは私のなんとなく想像していたものだった。朱莉は訓練から離脱したわけである。太田上長に朱莉がどうなったのか、何度も聞いて、情報を得ようとしたが、太田上長は何も話してくれなかった。それは太田上長が私の知らない情報を持っているのか、それともただなにもわからないだけのかも私には教えてもらえず、ただ調査中とだけしか私達はしることはできなかった。一週間経ち、二週間経ったが、何も物事は進まなかった。ただ、訓練生である私達には訓練を継続する義務があった。それはこの自治区で暮らすすべての人たちのために。訓練の停滞は、訓練生が独り立ちする時期の遅延を意味する。私は第二提琴の組長になった。私が選ばれるとは一抹の思いもなかったが、太田上長は私にその責務を与えた。これまで組長だった。種山が第一提琴の組長になった。 「第二の組長とは太田上長も英断だね。こりゃ。」  食堂で隣の席に座った種山が軽口をたたく。 「あなたも第一の組長とはかなりの重責じゃないの。」  私もそんな軽口をたたいた。種山が十七歳で私が十六歳だった。朱莉も私と同じ十六歳である。 「2ndトップになって一ヶ月経ったけど。どうよ。外から見ていると合同訓練の時も2ndトップも板についてきたじゃないか。」 「それは、ありがとう。だけどあなたも大変でしょう。」  種山にそう言われて、安心したのは事実だった。 太田上長に檀上から声をかけられて、2ndトップになって三回目の合同訓練である。ふたりのための提琴協奏曲での演奏が評価された可能性も少なからずあるのかもしれないが、周囲の予備団員の誰もが朱莉がいなくなったことが原因で、朱莉の1stの穴を埋めるために、2ndトップである種山が1stに移動したことなどが重なって、このような配置になったのは間違いないだろう。ただ、私はそのことをあまり気にすることはなかった。私以外にも第二提琴の予備団員はいるのだから、余りのなかから太田上長が私を選んでくれたことには意味があったのだ。 人生何が起こるかわからない。私をフォローしてくれていた朱莉がいなくなり、私と種山が提琴のトップで引っ張ることのなるとは。1stには吉田上長の代わりに新しい女性の上長が着任した。他自治区には見られないめずらしい女性上長だらけの珍しい楽団になったと太田上長は笑った。                       
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