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 驚くべき知らせが入ってきた。自治区には外と内を結ぶ情報網はない。それは自治区内においても同じであり、効率的に情報を伝える手段は失われて久しい。情報というのは人づてにじんわりと広がっていく。色水にぬらした紙縒りのように。視界に滲む血のように。多くの人間と接していて情報の取得に優れた人は情報を素早く取得するが、他人との交流が少ない人は遅れてその情報を耳にする。私はどちらかと言えば、C.H内に情報がたまってきたときに溢れ出した情報をそっと掬い取るような人間だった。太田上長の指導がある午前中は良いのだが、午後に、第二提琴の組長として、組訓練で予備訓練生を指導しているときに、ふとなぜ私が指導しているのかわからなくなる現実がある。夜皆が寝静まったころ、ふと目が覚めて二年から三年年下の予備訓練生と一緒に次の課題曲の訓練をしている現実に、ふと驚くことがある。私は何をしているのだろうかと。  その日、午前訓練が終わった後に、一年下の女性予備訓練生から朱莉さんが戻ってきているという噂を知っていますかと、と話かけられた。そんな噂を私は耳にしたことがないと答えた。それは事実であり、何かを隠しているわけでも、隠すべき事実を私は知らないのだったから仕方ない。そうですかと言ってその女性予備訓練生は訓練室を去っていった。私はそのことを知らなかったし、その女性予備訓練生からそれを聞いた後でも、半信半疑だった。初めて聞いた情報だったのだから。ただ、昼に種山と昼食を取っているとき、こんな話があったということをそれとなく話すと、種山は驚いた顔をして、食事の手を止めた。 「そんな噂が流れているのは知っていたんだ。俺も最近、友人からその話を聞いたんだ。」  種山が白々しく驚いたように私には見えた。 「もしかして知っていた?だいぶまえから。」  そんなことないよと種山は言ったが、おそらく知っていたのだろう。私はそう直感した。もしかしたら私にそれを伝えるのを渋っていたのだろうか。私はそれ以上種山にその話をすることをやめて、目の前の食事に戻った。横で種山がなにか言っていたが私は何も話さなかった。 「朱莉が戻って来たという噂を聞いたのですが、それは本当のことなのでしょうか。」  太田上長による午後の訓練が終わった後、私は上長にそう尋ねた。上長は困ったような顔をして、椅子の上に置いてある提琴を数回薄汚れた布でこすると、提琴を椅子に置いて私にこういった。 「一週間くらい前にC.Hに戻って来たね。だいぶ消耗していたから。今は一次的に入院しているけれど。もう少しでまた訓練に参加できるくらいに回復すると思うから心配はいらない。」  太田上長はそういって私の顔を見た。 「すぐに伝えなくて悪かったね。朱莉がどれくらいで回復するのかわからなかったから、皆には話していなかったんだ。C.Hに戻ってきたときに、朱莉を見た人がいたのかもしれないね。それで噂になったんだろう。そういうことさ。」  太田上長はそう言って提琴をケースに丁寧にしまった。 「戻ってきたら、これまで通りに頼むよ。朱莉は第一提琴に戻る予定だから。もう組長にはならないけれど。」  そういって太田上長は訓練部屋から出ていった。  三日後に、朱莉が普通にC.H内を歩いているのを見かけた。後ろ姿を見て私にはすぐに朱莉が戻って来たことを悟った。どうやって声をかけようと逡巡していると、ぱっと朱莉が後ろを振り向いた。ぼんやりとした笑顔だった。これまでに見たことがないような柔和な顔だった。 「おはよう。体調はもう大丈夫。」 なんて声をかけようかなんて、考える暇もなく私は当たり障りのないことを話した。話かけてから何を私は聞いているんだろうと、すぐに後悔した。元気になったから病院から出て来たんだろうに。 「体調は戻って来たんだよー。今日から訓練にも参加するよー。」  朱莉の口調は今までにない程、ゆっくりとしている。それは私のように。 「まだ完全には治っていないんだー。だから赤玉と青玉を時々飲んでるよー。今日はまだ飲んでないよ。」  赤玉と青玉とはなんだろうと思ったが、数か月前とは違う、朱莉の只ならぬ雰囲気に、私はそれ以上朱莉にあの時吉田上長と何があったのか。なぜ1か月いなくなって、戻って来て、1か月どこにいたのか。そして赤玉薬、青玉約とははたしてなんなのか。疑問符が頭に浮かんでは脳内に淀んでいたが、その淀みを解決するための解を朱莉に聞くことはできなかった。 「でも元気になってよかったよ。また合同訓練で合わせようね。じゃあね。」  私にはそう言うことしかできなかった。しばらく朱莉は遠くを眺めていたが、宿舎の方へ歩いていった。危なっかしく思いながら、朱莉の行く方向を眺めていた。ほどなくして、古い宿舎の裏に消えていった。  ふっと背後に気配を感じると、太田上長が立っていた。驚いて振り返ると、上長が今度はお前が朱莉を助ける番だよ、と言い、朱莉が消えていった宿舎の向こうへ歩いていった。  しばらくして合同訓練が始まった。朱莉も第一提琴の一員として復帰した。太田上長の言葉が脳内に残っている。お前が朱莉を助ける番だと。私は朱莉に何をしてあげればよいのか。まだ、私は何もやっていないし、朱莉との会話すら、先日の立ち話からあまり時間が立っていないので、何を話せばよいのやら、私には考えがまとまっていなかったが、何かを話さなければいけないと言う思いだけが滞っていたのは間違いなかった。  ところで吉田はどうなったのだろうか。朱莉は戻って来たが、あの後、吉田がC.Hに戻って来ることはなかった。数日後の訓練で、太田上長から聞いた話によると吉田は自治区から追放されたらしい。そういう噂を聞いた。すべては噂の中から生まれ、噂の中に消えていくので、真実はわからないが、私達予備訓練生には真実として伝えられることはなく、それとない噂が我々の真実として存在するだけだった。噂によると追放された吉田はAdjusted Man(A.M)の初回生産ロットだったという。A.Mの生産開始の正確な時期を私は知らなかったが、私が生まれるだいぶ前なのだろうということぐらいしかわかっていなかった。今となっては、皆アジャストさされた生物としてこの自治区内に存在しているが、A.Mが現れたのも、直近40年間くらいのことである。失われた楽譜、失われた音楽、失われた文化、失われた生物。三百年前に失われたそれらの事象は、失ったことさえ忘れてしまう程に、現在までほそぼそと残っている。その中で、A.Mがもたらされたのは私が生まれる20年程前のことだったということらしい。私達が生まれた時にはすでに存在した技術であり、生物だった。私や朱莉は7代目ロットだった。初回ロットから数年は毎年新しい機能が追加されていったが、7代目ロットとなってからは十年近く経過しているらしい。そんな話も今回、噂話で聞いた話である。  吉田がその初回生産ロットの一人だったというのは、私には驚きではあったが、それ相当の納得感があった。ああ、そういうことかという感覚に近いなにかだったのだ。吉田が指揮台に立ち私達を冷めた目で見つめるその視線の奥にあったものが、浮き彫りになったような気がしたのだ。いわゆるエリート意識という傲慢性なのかもしれない。ただ、その傲慢さは第二、第三世代のA.Mが生産されるにつれ、さらにはナチュラルが苛酷な生活環境に淘汰され急速に死滅し、人口を減らしていった中で、A.Mの生存率は急増した。それは技術革新が止まった後のロストテクノロジーにおいて、唯一の成功だったと歴史家に語られている。このことについて、誰から聞いたのかを覚えてはいないが、私もそのことは知っている。今になって思い出したことであるが、さらりとそのことを太田上長に聞いたことがあったことを思い出した。太田上長がいうには自分はナチュラルの最後の世代なのだとであるということを話していた。同じ世代の人間はほとんど死滅してしまったということだった。その当時の苛酷な環境に精神的にも肉体的にも耐えられなかったのだそうだ。それは初めて聞いた話であり、私にとっては大きな驚きであったことを覚えている。正確にいつからナチュラルマンがA.Mへと変わっていったのか、私には正確にその時期を知らなかった。包括的な歴史の体系など、かの大戦後には失われて久しいため、個人的な書簡などのごくパーソナルな記録のような断片的な歴史を組み合わせることでしか、過去の真実を知ることは難しいのである。ただ、もちろん私朱莉もA.Mであり、組み込まれているデバイスは7代目ロットのものであり、それは現時点での最新版のデバイスなのだった。境目に生きた吉田や太田上長のような人間にとっては、デバイスを保持しているかどうかは大きな違いであり、吉田にとってはそのナチュラルへの優位性が自分の精神の安定を保っていたのかもしれないと私にはそう思うのである。太田上長のように強く生きることができる人間もいれば、ナチュラルに対する優位性だけで立っていた吉田が、A.Mの増加による優位性を失っていく自分の立場を受け入れることができず、朱莉に対してあのような行動をとったように私にはそう思うのである。 これまでに自分が精神的に調整を受けた人間であることは把握していたが、太田上長がナチュラルであることは知らなかったということはよくよく考えると幸せなことだったのかもしれない。ナチュラルな人間がいまだに残っているのかという驚きと、ナチュラルな人間がこんな近くにいたということの驚きは、今後、その違いを意識して生きていかないといけないということだった。吉田はもうもどってくることはないだろうし、戻ってきてはいけないのだと私は思った。
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