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 朱莉の帰還から1か月がすぐに経過した。ぼんやりとした朱莉の表情は1か月経った今も変わらなかった。のんびりとした美しい顔をした若い女性が一人唐突にあらわれたように思えた。ブランクを経て、合同訓練に現れた朱莉は、前回話したときよりも、少し体力を取り戻したように見え、私は少し安心した。1か月の間、朱莉のことを気にかけながらも何もできなかったことを後悔していた。ただ、朱莉は1か月間、外には出てこなかったので、なにかをしてあげることもできなかった。そんな自分を責めたりもしたが、行動を起こせなかった。訓練を再開した朱莉は補助なく生活を送ることができるようになっていた。  復帰する前に朱莉を補助することができなかった私は内心後ろめたさを感じていたので、朱莉と共に行動することが多くなった気がする。そして今、朱莉と一緒に自転車でこの地区を走っている。いつも前を走っていた朱莉は私の後ろを自転車でついて来る。あまり話すことが思い浮かばない。これまでも自分自身から話題を出すこともなく、朱莉が話して、私がそれに反応するような会話が多かったが、今になって、私が話をする番になったような気がしている。そして、自分から誘っておきながら後ろからついて来る朱莉に何を話したらよいのかわからずに、初めの一言を探しながら、C.Hを出てからすでに五分が経とうとしていた。一年間、朱莉がいない間、その一年というのはあっという間だったが、濃密な一年だった。私は太田上長に連れられて、この自治区の様々な場所へ連れて行ってもらった。2ndのリーダーをやることになったことの対価なのか、太田上長は私を連れて外の世界を見せてくれた。それは初めて見る景色ばかりであった。見れば見るほど、自治区の外には何もないこと。何もないとっても物がないわけではなく、自分たちにとって価値のあるもの、生きてくうえで私達が必要としているものは、自治区の外の世界には何一つないということが如実にわかった。ただ、何もないこと以外の発見もあった。 ❘自治区の果てと思われるところまで、太田上長と私を乗せた三輪の幌車が止まった。無口な運転手がうつむいた顔を後ろに向けた。 「これ以上行っても、なにも景色は変わらないと思いますよ。二時間くらい前から変わらなかったけれど。先生が止めるところまでまっすぐに進むようにと言ったから、ここまで来たけど。自治区の果てかどうかは私には判断できなよ。」 小さな体の猫背の運転手は申し訳なさそうな顔をして、上目遣いに私達を見つめた。 「ありがとう。一旦ここで止まろうか。お疲れさん。ちょっと休憩していてよ。」  太田上長がそういったものの、飲み物や食べ物が売っているわけでもない。道路は平たんなものの、荒れており、道から外れれば、大きな岩が点でバラバラに転がっている。何かわからないような設備が朽ちたものや、どうやってできたのか想像できないほどに変形した金属片が地面に突き刺さっている。運転手は少し離れたところで、程よい岩に座って、自分で持ってきた水筒からどろりとした液体を飲んでいる。 「あんたも休憩したらよいよ。座っているだけでも疲れるだろう。」 「ありがとうございます。」 そう言って私も持ってきた水筒からどろりとした液体を飲み、喉を潤した。潤っているのかどうかわからないか、自治区ではこの液体が皆に配給され、私達はそれを飲んでいる。 「C.Hから離れここまで遠くに来たことは初めてだろう。」 私がうなずくと、太田上長は嬉しそうに笑った。 「一度ほとんどの文明や技術が失われた世界で人が治めている地域の境界がどこにあるのかなんて実際にはわからないんだよ。周りを見てもなにも、人のいた形跡なんてないだろう。ここが自治区の果てさ。」 そういわれて見ると、自治区の果てのように思えてきた。C.Hにいても決して見ることがない、これまでに一人で生きてきた中では決して見たことがない景色だった。ぽっかりとした何もない荒野にいると距離間が狂ってしまう。延々と続く道ははるかかなたまで続いているのに、すぐそこで途切れているような閉塞感すら感じるのだ。遠く程近く、近く程遠い。そんな感覚。 運転手の気配が感じられない。後ろを振り返ると運転手は静かに寝息をたてていた。こんなところでよく眠れるもんだと私は妙に感心した。先ほど座っていた小さな岩を枕にしている。C.Hの恵まれた環境と比較するとそれはあまりのも何もない世界。何かと何かを対比することでしか、その程度を知ることはできない。絶対的な尺度など私の中にはない。 「提琴を弾いてみたらどう。せっかく持ってきたんだから。」 私はその提案に驚いたが、持ってきたのだからしょうがない。いつ何時誰の襲撃を受けるかもしれぬため、自分に渡された楽器を肌身離さずにいることは、他者のために楽器演奏を生業として選出された人間の義務でもあり、矜持でもある。いつ暴漢に後ろから殴りつけられるのか、私にはわからないのである。私は幌車に戻り、足元に置いてある提琴の固いケースを手に取り、手ごろな扁平な岩の上に置き、そのケースを開いた。屋外で提琴を弾くことは大戦前にはなかったらしい。ただ、その目的。大人数にその音色を届けるという大目的を持った今の時代において、屋外で楽器を奏でる機会のほうが多いようである。太田上長の指示は絶対である。私は開いたケースから一丁の提琴を取り出した。C.Hに初めて連れてこられて、すぐに渡されたこの提琴との付き合いは長い。古い提琴である。昔聞いた話によるとあの大戦前に作られたもので、駒はもちろんのこと、ペグにせよ、魂柱にせよあらゆる箇所が修理されたものである。つぎはぎだらけのこの楽器に改めてニスが塗られている形跡があったが、そのニスでさえ、その上からさらに別の時代のニスが塗りこまれているのである。私の手に来てから大事に使ってきたので、修理をしたことはなかった。屋外で提琴を弾くことには慣れている。解放弦でAの音を出し、私はペグをわずかにきつく締める。乾いたAの音が心地よい音程になったところで締めるのをやめた。続いてAの音に合わせてDを重音で調整し、同様にG、E の音程を合わせる。心地良いEとAの重音に、提琴が震え始めると、提琴と接する私の顎、そして左半身が心地良い振動に共鳴していく。何を弾けばよいのかわからないが、なんとなく音を出していると、ゆっくりとしたリズムで緩やかな曲に合わせて指と右半身が動き始める。ゆっくりと変化している音程。「主よ人の望みのよろこびよ」だった。一小節弾き終わると、遅れて後方から音が響く。太田上長の提琴の音色だった。いつの間にか提琴を取り出し、準備していたようだった。遅れてついてきた太田上長の音色が私の音色に重なる。太田上長のターンが終わると私のターンが始まり、メロディーラインが五小節で入れ替わる。昔からずっと弾き続けてきた曲であり、太田上長から教えられた曲でもある。何もないこの土地で、二人の音色が心地よい空間を作り出す。太田上長の感情は私には把握することはできないが、少なくとも私の心中には多幸感が満たしている。楽器を弾いているときに感じるこの感じが私は好きだった。何もなくなってしまったこの場所で、生きることに意味があり、それ以外に意味がないこの土地で、楽器は私に生きるだけではない別の感情を与えてくれる。ぼんやりと感じていたことであるが、ここで提琴を弾いてそれに気が付いた。弾き終わって、再び平らな岩の上に置いてあるケースに提琴を丁寧に置くと、私自身は赤茶けた地面の上に座り込み、ふうっと息を吐いた。 「どうだい。ここには何もないけど、楽器を弾いて音色を奏でればこんな気持ちにもなれるんだ。ここはC.Hから遠く離れた場所だ。自治区の最果ての地なんだ。C.H.にいても感じていたかもしれないけれど、ここまで何もないと、より明確に感じることができるだろう。」  太田上長の言いたいことはひしひしと感じられた。深くうなずくと、太田上長も満足した顔を見せた。 「そういうことさ。何もなくても、幸せを感じることはできるということさ。」  そういって後ろを振り返ってみるように私に促す素振りを見せたので、それに従うと、後方で運転席に座っていた運転手が、小さく手をたたき、嬉しそうな顔をしている。それがこの現象を如実に表しているといってよいだろう。 私もうれしくなって、ぼんやりと空を眺めながら、小さく手を叩いた。何もなくなってしまったこの場所で、まだ残っているものはあり、それに私達はまだ感情を動かされることができる。感情はまだ死んではいないはずなんだ。それを太田上長はここまできて教えてくれたのだろう。太田上長は再び幌車に乗り込むと、私に早く乗るようにと素振りを見せた。 「C.H.まで戻ってくれ。日が暮れてしまう前に。」  太田上長がそういうと運転手は嬉々としてエンジンをふかし、急発進した。❘ 昨年太田上長から教えてもらったものは数多い。それは私が2ndのリーダーになったからなのか。それによるものなのか私にはわからない。朱莉にもそんな指導をしていたのか。それまでに朱莉から私達とは異なる指導を受けていたことなんて聞いたことはなかったが、私にはそのことを伝えていなかっただけなのかもしれない。ただ、昨年私が太田上長から手厚い指導を受けたのは事実なのである。もし私だけがその指導を受けていたとしたら、それは私のために、それとも心を失った朱莉のためなのか。私にはその判別を現時点ですることはできない。ただ、私は朱莉と共にもう一度、この世界の在りようを確認していこうと決めていた。それは朱莉のためでもあり、私のためでもあった。 それは朱莉と陰璃の社会科見学のようなものに思えた。 「提琴重くない?自転車の速度が速すぎない?」 やっと絞り出した初めの一言は想像していた通り、大して内容のないことであった。大丈夫と小さな声が後ろから聞こえてくる。後ろを振り向くことはなかったが、おそらく小さく微笑んでいるのだろう。昔の朱莉からは想像できないような返答である。  川沿いの道を外れ、下っていくと、小さなアーケードを携えた商店街が見える。そこが今日の目的地である。朱莉と二人でここで提琴を弾く。弾く曲はバッハのドッペルである。私が2ndで朱莉が1stである。商店街の組合長にはここで提琴を弾かせてもらうように依頼済みであった。ここで提琴を二人で弾くことを決めたのは私だった。自転車を道端に止めて、提琴をケースから取り出し、調弦を始める。背中合わせで音が重ならないように、小さな音で調弦をする。背中の朱莉が心強い。これまで一人でこの場所で弾いていたが、二人で弾くのは初めてである。背中から感じる朱莉の気配が心地よい。 「それじゃあ弾きましょうか。調弦できた?」 準備完了、と小さく声が聞こえてくる。私と朱莉は向き合って、息を整えると、顎を引き、タイミングを合わせた。見えないアウフタクトが振り下ろされる。 この数か月、ここで提琴を弾いてきた。それに昨年は太田上長に連れられて、歩き回った。わかったことは、厳しい社会情勢、底辺の人類の精神状態。私達はC.H.という膜に覆われて、それでも守られた暮らしをしていることがわかった。自治区には小さいながらも実に多様な人々が暮らしている。あるべき姿などわからない。何もないのだから。私達にできることは保護されるべき人の前で音楽を弾くことだと私は決めた。文化を失った世界で癒しを与えてくれる創造物はほとんどない。残された楽譜は自治区の書庫に集められ、保管されている。そこには、バッハとかヘンデルとか作曲家の楽譜が置いてあったが、この書庫でしかみることのできない記録であり、記憶からは300年前に失われてしまっている。ただ、楽譜はあるのである。それは私のできることだった。  この曲は2ndのメロディーから始まる。きびきびとしたいかにもバロック様式の曲調が始まると、私の体に1本の細く強靭な鉄線が通るような錯覚になる。五小節が終わると朱莉の高い音のメロディーがついてきた。いつもとは逆で、私がリードしている。 午前中で、日は高いが、私達二人の周りには、朝まで働いていたと思われる作業者達や、食材を買いに来た主婦が集まってきた。その後ろには、何に生きていくためのすべを得ているのかわからないような、薄汚れて年齢もわからないような人が一人いた。それらも含めて私達が音楽を届けるべき人々なのだと私は思った。
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