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 太田上長からの特別指導で私が知り得たことは、、多い。 太田上長に連れられ、普段は決して近づかないような場所へ連れていかれて、驚いた発見は多いのだ。それは太田上長が想像していたよりもずっと年を取っていたためなのかもしれないが、彼女には大戦前の情報も持っていたことは驚きだった。ナチュラルな人間に会ったことも彼女が初めてだったが、さらに大戦前のことを知っていることは驚きだった。なぜ、そのことを今まで教えてくれなかったのかと薄くとがめたことがあったが、笑って答えてはくれなかった。 三百年前の第三次世界大戦とその後の文化大統制により、その当時に存在したほとんどの音楽、文学、伝統芸能、娯楽、そして楽譜、楽器は焼却され、失われてしまった。かつての記憶媒体も残ってはいるものの、それを再現するための機器は壊れ、その自然に風化していった。その中でのこされたのが紙の記録媒体だった。それ以外は口伝という形でしか残されなかった。なぜ太田上長が三百年前のことを明確に知っていたのか、記憶していたのか私にはわからない。私もそのことはなんとなく知っていたが、それは明確な事実だったようである。大戦、文化大統制のよる音楽の排除により、楽譜、楽器、音楽を失い。完全楽器を作る技術は失われた。その百年後、わずかに残された楽器、楽譜を見つけた一部の人間が人間はロストテクノロジーとして、一部の楽器、楽譜がこの自治区に集められたということだった。朱莉にそのことを伝えたとき、彼女は特に驚いた素振りを見せることはなかった。ただ反応を見せなかっただけなのかもしれないが。 太田上長から教えてもらううちに、新しい楽器を作るための技術が失われていること聞いた。木製の楽器である弦楽器や、金属製の管楽器である。作ろうと思えば、作ることができるのではないか。何もないとは言え、なんらかの木は生えているし、屑のような鉄板は自治区のはずれには山のように廃棄されている。それらを使って、楽器を模倣できないのか?と私は太田上長に聞いたことがある。そうすると、彼女は、「馬鹿言っちゃいけない、そんなもの作ってもなにも人の心の平穏を与えることはできないんだ。昔私もおなじことを考えて、自治区の大工に指示して提琴を作ってもらったことがある。出来上がったものは極めて提琴に似ていた。ただ、私がそれをいくら弾いても人の心を動かすことはできなかった。それはただの木の箱だったのさ。」と太田上長は悲しそうに言ったのだった。  C.Hの私の部屋には、今度は朱莉が来ている。朱莉は隣の部屋に戻ってきた。私は朱莉を私の部屋に呼び、ともに椅子に座り、他愛もないことを話ながら、私が太田上長から聞いたことを今度は朱莉に伝えるのだった。 「一度すべての音が世界から消えたところまで、昨日話したよね。文化大粛清により、文化はこの世から排除されてしまったが、そのあと少しずつ、残された資料を基に、人々は音の出し方を見つけ出していたんだ。その第一世代の一人が太田上長なんだよ。初めは使い方もわからなかった楽器の音色が次第に再び世界に戻って来た。」  朱莉がうなずきながら聞いている。理解しているのか、それともすでにこんなことは知っていることなのか、私にはわからないが、私は続ける。 「時すでに遅く、戦争、言論統制、文化粛清により私達の集団的無意識下に精神汚染の状況が刷り込まれたのだと私はぼんやりと思っていたが、それは人為的に植え付けられたものだっただと思う。」  朱莉はやはりぼんやりとしている。 「自ら文化、科学、知識、芸術を失ったことによる弊害なのだろうが、人々は失ったものの重要性に気が付いた。その時点で残されていたのは、古い楽器とその弾き方を教えてくれる楽譜だけだったんだ。それしか、私達を支えてくれるものはなかった。私達A.Mの体には汚染された精神が埋め込まれているのだから。A.M達はあらためて呪われた体が何を求めているのを知った。人々はそこで初めて音楽の有用性に気が付いたんだ。」  朱莉の目の色が変わったように見えた。朱莉の体に埋め込まれた精神のよどみが、澄んでいく。私は続けた。 「三百年前の混乱から人々は中央集権的な国家という枠組みを手放し、数千人規模の小さな自治区を作った。その中の一つが私達の住む自治区なんだ。ただ、私達の住む自治区以外に自治区が存在するのかどうか、私は知らない。」  朱莉の目がカッと開いたが、私は続ける。 「人々の心をいやす音楽とは何なのか。心地よいものの根底に音楽があるのは間違いないが、それを特定することはできない。受け入れがたい経験などのせいで精神が混乱し、深く傷つきもとに戻らなくなった状態のこと。精神の不可逆性が進んだ結果、人々は皆、こぞって精神の救済を求めている。ただ精神汚染を緩和するための娯楽はすでに失われており、内服薬やが音楽といったものしか残っていない。弦楽器(提琴等)の音色が人々の精神汚染を緩和する効果があることが広く知れ渡っていたため、自治区のconnected house に特性検査の適合した未成年が集められ、予備訓練生として集団生活を送っている。それは私達のことなんだ。」 「私達人口減少により、人間はホモサピエンスの種としての保存を保つために、必要なリソースの一つとして考えれるようになった。個人の存在価値が消費することにあった時代は終わり、個人としての存在価値はなくなり、集合体としての存続が目的となっていた。種を保存するためには、ある程度最低限必要な人数があるということか。」 最後の言葉は、朱莉の言葉だ。朱莉がまた私のところへ戻ってきてくれた。私はとても満足するとともに、深い充足感に満たされた。 そして、私は誰かを救うことは自分を救うことと同義であると気が付いた。この一年間でやってきたことは、朱莉のためでもあり、私のためでもあった。精神は安定して、心は軽くなる、音楽を聴くこと以上に弾くことに回復の効果がある。それを気が付かせてくれたのは朱莉だ。
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