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 家に帰ると、玄関には母のヒールが無造作に転がっていた。浴室からシャワーの音がする。  俺はそのまま自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。自分の匂いがした。さっきまで他人の匂いにまみれていたのが、嘘みたいだった。  枕に顔を押し付けながら、時間がすぎるのを待った。風呂場の扉が開く音がする。 「あっ拓海ー、帰ってたのー?お帰りなさぁい。お夕飯ありがとうね。拓海の生姜焼きいっつも美味しいねぇ、あれ、拓海?部屋かな?拓海ー、」  俺の名前をやたらと呼びながら、母は部屋に歩いてくる。ヒタヒタという裸足の足音が、部屋の前で止まった。 「たっくみー……」  暗い部屋に、母のシャンプーの温かくて甘ったるい匂いが漂う。 「……拓海。どうしたの。」 「どうもしてない」  母はあらそう、というと、俺の髪を撫でた。その手の感触が、さっきの男の手と重なった。とっさに母の手を振り払う。 「……そんなに苦しそうにしてちゃ、お母さん心配だよ、」 「心配したって、どうにもならない」  振り払われた手をベッドの端に置きながら、母はほんの少し寂しそうに言った。 「そう。」  その時の母がどんな顔をしていたのか、突っ伏していた俺にはわからない。あるいは突っ伏している俺が、母にどう見えたのかも。ただ、お互いに、互いが見せたかったものとは違うものを見ていたのだと思う。 「ねぇ拓海。どんな大学に行ったっていいんだよ。私立でも公立でも、好きなところに。お母さん昇進決まったし、なんにも心配いらないから。」  古風な親父と不仲が原因で離婚して以来、母は必死になって働いた。全ては俺に不自由させないためだ。おかげで俺はバイトをする必要もなく、学業にも部活動にも打ち込めた。  だがそれ以外の時間のことを、母はどう思っているのだろう。俺が隠れて煙草を吸っていることも、同級生の作品を燃やしていることも、いかがわしい店に行って男相手に楽しんだことも、母は一つも知らない。一つも。 「いつでも話してくれていいし……友達に話したっていいよ。ただ、一人きりで抱えるのはだめだよ、」  誰にこんなことが言えるのだろう。  言えたとして、誰に理解ができるのだろう。  俺は深い穴の底に蹴落とされた気分で、薄く目を開けた。すぐ側に、優しい母の顔がある。その優しさが、そのまま断絶の壁となって、二人を分け隔てたように感じた。
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