9.

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「何者にもなれない、か」  炉火はほんの少し目を伏せて、カップをソーサーに戻した。まぶたを縁取るまつげが寂しそうに揺れる。それからふっと窓の外を見た、その横顔に、もうあの炎は宿っていなかった。 「俺もなにか、特別なものになりたかった、」  柔らかい笑顔だった。彼の中の尖っていた部分は、何者かが折ってしまったようだった。歳月なのか、大学生活なのか、あの炎なのかはわからない。もしかするとこのまま、彼は、炉火としての姿を留めずに消えてしまうかもしれないとすら思った。 「炉火は特別だ」  思いがけず出た俺の言葉に、彼はこちらを一瞥した。 「特別だ。俺にとって、ずっと特別だ。」  返事はなかった。  俺はなにか大事なものを失った心地で、店をあとにした。  炉火は車で駅まで送ってくれた。車中、彼は進行方向にある昼の月を見つけた。 「お前の話を聞いてから、少しは見つけられるようになったんだ、」  そうつぶやく彼の顔は、微笑むようでいて、俺には泣いているようにも見えた。丸田先生が、昼の月を〈秘められた思い〉の比喩と答えたのは二人だけと言った、あの話が何故か今、思い出された。  車を降りる直前に、炉火が俺の携帯番号を訪ねた。俺は高校の時から変わっていないことを伝えると、それにうんと答えるわけでもなく、「じゃあ。」と言って車を出した。  炉火から連絡が来ることはなかった。  俺は淡い期待をしていた。彼からまた会いたいと言ってくれるのではないか、また二人で旅行に行きたいと言ってくれるのではないか。  六年の歳月が、炉火を俺のもとに戻してくれるのではないか。  そんな虫のいい話はない。  かつて彼を救いそこねた自分に、彼の好意を期待する資格はない。  木枯らしの吹く夜中、ベッドの上で炉火あてに〈あいたい〉と打ち込みながら、送信ボタンを押す前にその文字をすべて消した。放り投げた携帯が、マットレスの上で黒い画面を向けて止まる。部屋の隅に置かれた埃まみれの天体望遠鏡が、もの言いたげに月の光を受けていた。
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