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10.
冬が終わり、炉火のいない何度目かの春が来る。
吹上は部署柄、バレンタインデーに大量の義理チョコをもらっていた。お返しを買うのを手伝ってほしいと頼まれ、土曜の昼に彼とデパートで待ち合わせた。
「悪いなぁ春岡、休みの日に、」
「いえ、元営業部のよしみってことで。」
彼は笑うと、地下にある菓子コーナーに向かった。ホワイトデーが間近なせいで、どこも菓子には気合が入っている。「これとこれ、どっちがいいと思う、」と何度か聞かれたが、どちらも趣味が良くて、なかなか返答に困る買い出しだった。
解散する前に、彼は地下街のカフェでコーヒーとケーキを奢ってくれた。俺たちはしばし、互いの身の上話に花を咲かせた。彼はどうやらいなさと一緒にサーキットフェスに行く約束を取り付けたらしい。
吹上は俺の四つ上の先輩にあたる。恋人も作らず、やれ一人旅だのフェスだの、独身生活を謳歌していた。そういう彼に、俺はたまに自分の姿を重ねることがあった。
嫌味のない男だった。決して派手ではなく、ちょっと軽率で、でも思いやりがある。彼は俺と同じで何者でもなかったが、やさしい希望に満ちていた。ああいうふうに生きられたらいい。駅で彼と別れ、穏やかな気持ちでそう思いながら定期を取り出した瞬間、俺の携帯が鳴った。着信だった。ザワザワとした地下鉄の喧騒の中で、俺ははっきりとその声を聞いた。
『拓海。お前、今どこだ、』
耳を通して、炉火の存在が体中に満ち溢れていく。
『どこ。』
「……駅。地下鉄の。炉火は、」
『暮明公園にいる。今から、来れるか、』
理由も何もわからなかった。わかるのは、炉火が俺を呼んでいるということだけだ。
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