10.

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 俺は地下鉄の構内を走って逆戻りし、地上に出た。何人かの通行人が、すれ違いざまに俺の方を振り返った。在来線のホームに駆け上がると、発車ベルを鳴らしていた暮明市行きの電車に飛び乗る。車窓の向こうで影になった建物がいくつも通り過ぎていく。暮れゆく空には、虹色の雲が薄くかかっていた。幾重にも重なった雲の、向こう側に切れ目が見える。  二十分かけて到着した駅で、タクシーを拾う。息を切らしながら〈暮明公園へ〉と伝えた俺を、年配の運転手は不審そうに見た。ちょうど休日の帰宅ラッシュが始まる時間帯で、公園に続く大通りは渋滞している。焦れる気持ちが口から出そうになるのを、ギリギリのところで抑えていた。  公園はすでに暗く、森の向こう側に夕陽が溶け残るばかりだ。あの日より少し遅い、三月の夕暮れ。俺は丘のむこうに何が咲いているかを想像した。  丘の坂道は、いつの間にか舗装されていた。そこを思いきり駆け上る。息が切れ、こめかみを汗が伝う。巻いていたマフラーをとって左手で握った。  やがて丘を登り切る。  風がざぁっと体を包んだ。青い草と蜂蜜の匂いがする。一面の菜の花が、薄く紫の影を落としながら揺れていた。  その花の海の真ん中に、炉火はいた。  脚立に座って、その背を優に超える大きな何かと向き合っていた。  俺はひと目見て、それが何の続きかを理解した。文化祭の日、炉火が完成させられなかった――美術室で炎に包まれた、あのオブジェだ。あの時は造花だったが、今そこにあるのは、生きた花々だった。大きな青い葉と無数の菜の花が、歪な花輪のように組まれ、一つの生き物の形を成していた。  炉火はまだその腕にたくさんの菜の花を抱えている。そこから一本を取り出しては、作品に挿し込んでいる。完成が間近だ。 「炉火!」  振り返った炉火の顔に、胸が詰まる。ほんとうに来てくれた、もう来ないと思っていた。そう言っているように俺は見えた。俺はもう一度〈炉火〉と言った、心から。  炉火が、その腕に菜の花を抱きながら、脚立を降りてくる。離れた場所から、まっすぐに俺の方を見る。 「拓海、」  涙の混じる声で、だがはっきりと、彼は俺を呼んだ。二人の間に咲く無数の菜の花が、風に強く煽られて一斉に揺れる。炉火はもう一度、震える肩で息を吸い込んで、俺に言った。 「俺のこと、許してくれるか。今でも、」  雲が切れ、月光があたり一面に降り注ぐ。 「今でもお前のこと、好きでいていいか、」  その(さや)かな光が、花々と炉火の顔を明るく照らし、俺の胸に見たことのない炎をともす。苦しみでも怒りでもない、もっと別の炎。  けれど確かに、俺を焼き尽くすもの。  出会ってから過ぎた十年の月日が、光の中で溶けていく。過去から今までの何もかもが、ここから始まるのだと語りかけてくる。  俺は菜の花の中に足を踏み入れた。炉火の方へと。前へ。前へ。  花々は音を立てて散る。散った花弁が風に舞う。その中を、駆け抜ける。  むせ返るような菜の花の香りが、夜風となって俺たちを包み込む。  頭上に浮かぶ澄んだ月には、雲ひとつかかっていない。  俺はありったけの力で、花ごと炉火を抱きしめた。 (終)
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