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「ばあやを呼べ」
かしずく使用人たちを前に、松野家の一人息子である学人(まなと)が声をあげる。松野家はこの地域の名家で、広い敷地には城のような御殿がでんと建ち、使用人も数多く雇われている。ばあやは学人の身のまわりのお世話をしていた。
「あらあら、ぼっちゃん。そんな大きな声を出さなくても聞こえてますよ。ばあやはここにおります」
使用人のあいだをぬい、ばあやが穏やかな顔で学人の前に姿をあらわした。棒切れのような細い腕にピカピカのランドセルを抱えて。
「執事をお呼び。ぼっちゃんの支度はできてますよ」
玄関ホールを埋めつくす使用人の中からとくに体格の良い男がばあやの前に進み出る。
「ばあや。わしはここにおるぞ」
「なにをしておる。早くなさい」
「ばあやは口うるさいからかなわん。おい、ぼっちゃんの門出だ。運転部長を呼べ。すぐに玄関まで車をまわすのだ」
執事が声高に運転部長を呼ぶと、それにこたえて今度は運転部長が声を張る。
「ぼっちゃんを乗せる運転手を呼べ。運転手はどこだ?」
「私です! ここにいます!」
使用人の集まるホールに凛とした女性の声が響きわたる。その声の主は綾乃だ。代々松野家に仕える血筋で、早くに両親を病気で亡くしてからは住み込みで、ばあやとともに学人のお世話をしてきた。
「ぼっちゃん、行きましょう」
綾乃に手をひかれて歩くふたりの姿は姉弟のようだ。ふたりのうしろには、ばあやをはじめ使用人たちがぞろぞろとつづく。
玄関前にはすでにリムジンが横づけされていた。
綾乃が後部席のドアを開ける。
「ぼっちゃん、乗ってください」
しわひとつない制服に身を包んだ学人は今日から小学校に通う。綾乃はすぐに運転席にまわると車を発進させる。
「綾乃。小学校とはどんなところだ。たのしいのか」
じつは学人がひとりで家を出るのはこれが初めてのことだった。それだけに胸の内は不安と期待でいっぱいだ。
「友だちをいっぱいつくるところです。きっとたのしいですよ」
「友だち? 友だちとはなんだ?」
「これから毎日一緒に学んだり、遊んだり、楽しく過ごす仲間ですよ」
「それでは綾乃と同じじゃないか」
学人にきょうだいはなく、両親はともに仕事でいそがしい。これまで彼にひらがなや数字を教えたり、遊んだりしたのは、ばあやと綾乃だけだった。とくに使用人の中でもっとも若い綾乃は、学人にとって遊び相手にはちょうどよかった。
「ちがいます。ぼっちゃんと同い年の子どもと教室で一緒に勉強したり、遊んだりするのが友だちです。友だちができると明日もまた学校に行くのが楽しみになりますよ」
ふうむ。学人は考えこむようにうなった。
やがて前方に古ぼけた病棟を思わせるような建物が見えた。
「ぼっちゃん。あれが小学校です」
「あんなところに行くのか……。いやだなぁ」
大きく息を吐くと、学人の表情は一気に暗くなった。
学人には小学校の校舎が冷たい顔で手招きをしているように思えた。
早く帰りたい。それが学人の抱いた最初の印象だった。
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