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彼女は一国の女王である。街のパン屋で買ったバゲットを丸かじりしながら市場を歩いているとしても、一国の女王である。
彼女の一族はかつてから女性が強かったそうだ。なにがって、性格が。まだまだ新興のこの国を盛り上げたのは、彼女の一族の女性たちだった。
現に彼女の兄弟はみんなして気が弱く、「あ、国政とか無理なんで、妹に任せますー」と早々に隠居生活をしているような者たちばかり。そんな投げやりな兄弟に不平を言うこともなく、むしろ嬉々として彼女は国を治めている。
俺はそんな彼女になぜだか婿入りを望まれた隣国の王族の三男坊だったのだが、まあ将来を約束する女性がいたわけでもなく三男だから故郷にいても暇をしていたため、彼女の申し入れを承諾して婚姻した。それ以来、彼女のむちゃぶりに付き合わされる日々だ。
「名前というのは、とても重要なものだと思うのですよ、旦那様」
「はあ、そうですか」
バゲットのくずをつける彼女の口元を拭いながら、適当な返事をする。まったく、本当に女王なのか。いや、城にいるときはきちんと威厳があるのだが。
「もう、子どもですか、あなたは」
「だって旦那様がいてくれるから、いいかなって」
「よくありません」
ぺちん、と軽く額をたたく。「あいたっ」と彼女は小さく悲鳴を上げ、口を尖らせた。
「……それはともかく、名前というものを得ることで、私たちははじめてその存在を認知することができ、自分とそのものの関係を結ぶことができるようになるのです。この意味、お分かりですか?」
俺の答えを聞くこともなく、彼女は市場の花屋を指さした。
「名前を知らなければ、あそこにある花はすべて花という漠然とした存在でしかない。けれど、あれはポピー、あれはカーネーション、あっちはアネモネ……と名前を知ることで、個々を区別することができるわけですわ」
「はあ」
「カーネーション可愛いわ。ね、買ってくださいな」
俺は花屋に寄ってカーネーションを何本か包んでもらい、彼女に手渡した。ありがとう、と彼女はふわりと微笑む。
「だからね、人という存在もこの世にはたくさんいるでしょう」
カーネーションの花びらをつつきながら、彼女が言う。
「漠然と『人』として認識していたものが、名前を知ることで、その個人を『その人』として認識できるようになるの。だから名前というのは重要なものなのです。その人を他とは区別して、特別だと示すためにも」
「はあ」
ジャック・オルドー、と彼女が俺の名前を呼ぶ。
「刀を、貸してくださいな」
彼女に小刀を渡すと、わずかに引き出した刃でカーネーションを一輪、茎を短く整えた。その花を俺の胸ポケットに挿す。
「ジャック、あなたという人に出会えたことを、私は幸福だと思っています。それを噛みしめるために、あなたの名前を呼ぶんです。ジャック・オルドー」
「……それは光栄です」
「今、照れましたね」
彼女はおかしそうに笑い声を上げた。
「まあそんなわけですから、私の名前を呼んでくださいな」
「姫様、歩いて疲れたでしょう。広場で休みましょう」
「あ、逃げた」
だって彼女のそのお願いは、苦手なのだ。
俺は彼女の名前を呼べた試しがない。
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