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「もうひとつ例を挙げましょう。王族は、三度死ぬのです。その三度目の死が、名前が失われたときです」
彼女は広場の噴水のへりに腰かけた。水音が耳に心地いい。小鳥が水浴びに訪れたのを、彼女が目を細めて見守る。
まだ、名前の話が続くのか。場所を変えることで彼女の気分も変わって、俺に名前を呼ばせるのを諦めてくれないだろうかと期待したのだが。
「一度目の死は、その心臓が止まったとき。二度目の死は、人々の記憶から忘れ去られたとき。三度目の死は、王族の人名帖から名前が消えたとき。旦那様にも人名帖は見せたことがあるでしょう?」
「ああ。あの辞書より分厚い人名帖」
王族の名前を書き連ねた本がある。彼女の家のそれは、きっとどこの国よりも分厚い。たぶんあれで人を殴ったら即死だ。その最新のページに、俺の名前もある。
「人々の記憶から消えたとしても、あの人名帖さえあれば、私たちは死んだあとも王族として存在できます。だってほら、あの人名帖に載っている人間のどれだけの数が、今国民の記憶に残っていると思いますか。ほぼ忘れられているでしょう。まったく無能な王族ばかりですね。どうせなら後世にわたるまで、市井で名前を語り継がれるような生き様を見せてほしいものですわ」
手厳しい。
「悪名として残らないだけ、いいじゃないですか。可もなく不可もなく、平和に一生を終えたということですよ」
とりあえず彼女の先祖たちをフォローしてみた。彼女はちょっと考える素振りをした。
「まあ、旦那様が言うなら、そういうことにしておきましょうか。ともかく、あれが最後の砦です。たとえ人々の記憶から忘れられても、人名帖にさえ名前があれば、死後も王族として存在できる」
「はあ、そうですね」
水浴びしていた小鳥たちが羽ばたいた。青空に吸い込まれていく。水面から飛び立つ刹那、小鳥の羽から飛沫が飛んだのか、彼女の頬に雫が落ちた。俺はその雫を指先ですくう。ありがとう、と彼女は微笑んだ。そうして、
「ね、名前って重要でしょう。だからほら、私の名前を――」
「今日は空がきれいですね」
「……旦那様」
「……すみません」
彼女はゆっくり立ち上がって、歩いて行く。
「もう一刻経ちますから、戻りましょう。ほら早く、旦那様」
騎士団長たちに黙って城を抜け出す割に、変なところで生真面目だ。
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