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「さあ、もう逃がしませんよ。私の名前を呼んでくださいな」
城に戻ると案の定、騎士団長から怒られた、俺が。抜け出したのは彼女の方で、俺はちゃんと止めたのに。騎士団長も、彼女には逆らえないのだ。だからって俺に八つ当たりするのはやめてほしい。俺も頑張ったのに。
くどくどと騎士団長にお小言を賜り、どうにかこうにか自室に戻ったところ、彼女が待っていた。言い出したのは、街でしていたおねだりの続き。まだ諦めていなかったのだ。
「……名前なんて、呼ばなくてもいいでしょう」
「なにを言うんですか。名前がどれほど大切なものかは、今日お教えした通りです。私の話、聞いていなかったんですか?」
「いえ、聞いてはいました」
「それなら、とびっきり甘く優しく私の名前を呼んでください。旦那様なんだから、嫁の名前くらい呼べるでしょう。さあさあ」
にこりと、完璧な笑み。宮廷お抱えの絵師がここにいたら、速攻で筆を執っていたことだろう。
ただ俺は冷や汗を流した。
彼女のこのお願いが、本当に苦手だ。
名前が重要なことは痛いほど分かった。だからこそ、失敗ができないのだけど、今まで成功した試しがないし。ああ、胃が痛い。
「ジャック・オルドー、大丈夫、あなたならできますよ。自信をもって」
彼女が駄目押しとばかりに微笑む。楽しそうだ。俺が困っているのを見て楽しんでいる。ひどい。
「……分かりました」
腹をくくった。こうなったら彼女は止まらない。俺が彼女を呼ぶまで、ずっとつきまとうだろう。頑張れ俺。
「――いきます」
息を吸い込む。
「イリス・マティルダ・マノン・バルテン・ジュードロウ・クラハ・ゾエティス・サーラ・シャルロット・マヒ・ヤスミンロマン・ジュリー・ソフィア・ギャホンス・ヴァイオレット・マヤ・オンドル・ラ・アーヤ・マリオン・コンティチュール・クラピエ・フイル・クレー・ノエミ・ノエマ・アンジェ・アガタ・ラセーヌフォンテ・ジョセフィーヌ・プリンシパル・レクエナルド・ユクイエ・バルセロナロージャ・ゴブルハマナ・レ・パイナコ・レリーフ・アインツ・ラルゴ三世」
ぜえぜえと息をする。
あれ、これはもしや、言えたのでは。
彼女を見る。彼女も俺を見ていた。見つめあって、彼女がぱあっと笑顔になるのが見えた。
「お見事ですわ! はじめて間違えずに言えましたね!」
それを聞いて、俺は床に崩れ落ちた。
「は、はじめて言えた……」
「はい。完璧でした! 噛まなかったし抜けもありません! 上出来ですわ!」
きゃーっと興奮した彼女が抱きついてくる。
彼女の名前を呼びたくない理由。それは、フルネームがとんでもなく長いからということにほかならない。
彼女の王族は代々、とてつもなく長ったらしい名前をつける。だから王族人名帖が他国に類を見ない分厚さになるのだ。なんでも名前が長ければ長いほど権威がある印なのだとか。
おかげさまで、彼女の家に婿入り・嫁入りする者は、みんなこの試練を受けるらしい。嫁いだ相手のフルネームを暗記するという試練が。これを乗り越えてこそ、本当の夫婦になれるとかなんとか。
まあ彼女はただ単に「嫁の名前すら覚えられないんですか?」と俺をからかうために言っているのだろう……と思っていたが、それにしては、今とても喜んでくれている。
からかうためか、俺の愛を試すためか。あれだけ名前の重要性を説いてきたのだし、もしかしたら、本当に呼んでほしかっただけなのかもしれない。
まあとにかく、こうして彼女の笑顔が見られたなら、いいか。
達成感に包まれていると、彼女が言った。
「ね、もう一回呼んでみてください!」
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