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「……ちょっともう、無理な気がします」
彼女の大切な名前だ。噛むことも、間違えることもしたくない。……が、俺の記憶力はそれほどよくないため、二回目もうまくいくとは限らない。
どうにか彼女を諦めさせなくては。悲しませることなく、不機嫌にさせるでもなく、フルネーム呼びを回避する。考えに考えたすえ、俺は彼女の耳元に唇を寄せた。そうして。
「――イリス」
彼女の望むままに、甘く、優しく、とろけるように。彼女の通り名は、フルネームの最初をとって「イリス」になっているのだ。フルネームではなくとも、彼女の名前を愛おしく呼ぶ。
そっと身を引けば、彼女は固まっていた。
「……これで、勘弁していただけますか」
彼女の美しい瞳を覗き込めば、数秒後、彼女の頬がぼっと上気した。しかし頷いてはくれなかった。
「だめ。もう一回」
「え」
「もう一回、呼んで」
墓穴を掘ったかもしれない。
ん、と両手を広げる彼女を、おずおずと抱き寄せて、彼女の気が済むまで耳元で彼女の名を囁く。これはこれで、恥ずかしい。
「……あの、もう、これくらいで……」
「だめ、もっと」
そう言われてしまうと、俺は、彼女に逆らえない。なにせ俺は彼女のもとに婿入りするため、この地にやってきた。彼女の機嫌を損ねれば、路頭に迷うのだから、仕方ない。
名前を呼んで。
彼女のそのお願いは、危険すぎる。
(了)
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