茶屋

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「さっさと店主を呼ばねえか」  疲労に塗れた番頭の言葉に、小僧は慌て座敷から腰を上げた。  どうにも、散々な悪路だった。  峠を一つ越えた先での商いを終えた帰り道。幾度となく通ったはずの山道はその半ばを超えた頃合いに二人連れへ牙を剥いた。轟々と唸りを上げる風と雨。横殴りの雨粒に絶え間なく頬を張られながら、引き返すべきではないかと小僧は問うたが帰路を急く番頭は聞く耳を持たなかった。引き返したところでどうする。ここまで来た苦労を無駄にするのか。人喰いの化物が住むとも伝わる山中は雨ともなれば昼間というのに夜の様に薄暗い。山道を踏みしめ、足を滑らせ谷底へと落ちて行く自分の姿の想像を振り払い命からがら進んで行く。その精も根も尽きようという頃合いに、番頭が見つけたのは山道にぽつりと浮かぶ灯であった。  これまで幾度も通った道ではあるが、この辺りに家などあっただろうか。まさか豪雨に煽られ道を違えでもしただろうか。疲労に霞む思考の内に不安が過ぎる。それは番頭も同じだっただろう。  横殴りの雨には笠も役には立たず、雫の滴る瞼を擦り擦り灯の許へと近づいてみれば、ぼんやりと宙に浮いたそれはやはり家屋の戸口から漏れる灯りであった。大きく開いた其処から覗く橙の光。雨風に打たれ疲れ切った二人は羽虫の様に引き寄せられて行った。  脚が棒になっている。家主に頼み雨が止むまで休ませては貰えないだろうか。そんな期待を抱き歩み寄ってみれば、戸口の横には赤々とした提灯がぶら下がっている。茶屋だ。こんな、人の気も無い様な山道に。風に揺られ右へ左へとしている提灯を束の間ぼんやりと眺める小僧の肩を番頭の掌が強かに打つ。雨音に紛れる怒鳴り声に急かされ這う這うの体で軒先へと揃って逃げ込んだ。 「ごめんください」  開け放しの戸口から声をかけるが、煌々とした室内から返答は無い。もう一度と口を開くがその傍らで、番頭は既に笠を脱ぎ戸口を潜ろうとしていた。 「さっさと戸を閉めろ。雨が吹き込むだろうが」  怒鳴りつけられ小僧も寒さに悴む手で笠を外す。どちらにしろ世話にならないという道はなかった。  囲炉裏から炭の弾ける音がする。二人が雨具を脱ぎ捨て火に手を翳していようとも奥から店の者が出て来る気配はなく、小僧は少しばかり不安な心地で身を竦めていた。提灯と灯りに誘われ上がり込んでしまったが、構わなかっただろうか。今に家主が現れあの大雨の中へ放り出されてしまうのではないか。小僧の不安をよそに番頭はすっかりと腰を落ち着けてしまったようで。 「おい、さっさと店主を呼ばねえか。何か温まるもんでも喰わなきゃやってられねえ」  そう言って根が生えた様に座り込んでいるものだから、小僧は慌てて腰を上げる他には無い。  辺りを見回して見ても火の入った囲炉裏の他にはこれという物も無く、小僧は恐る恐ると店の奥を覗き込もうとした。赤い暖簾で仕切られたその先は板場に通じているだろう。あの雨だ、店の者も客が来るなどとは思わず奥に引っ込んでいるに違いない。  ごめんください。一言かけ暖簾を潜ると温い風が頬を打った。  赤銅色の壁と床。不規則に波打つそれは円を描いて、二間程先で突き当り、すとんと床が抜けている。  客間からの光の届かぬ其処は黒々とした深い穴の様に見え、小僧な二度三度と瞬いた。  板場ではない。家屋ですらない。人の気など有るはずも無い。  一歩踏み込んだ爪先に感じるものは沈む様に柔く沼地の様に滑って。いつか絞めた兎の腸を思い出す。熱を持った獣の内臓。  あまりの景色に立ち尽くす。流れ出た思考に代わり、疑問が小僧の頭蓋を埋めていく。  なぜ、あの大雨の中、この茶屋の戸口はぽかりと開いていたのだろう。  なぜ、人の通りも無い山の深くに茶屋など店を構えていたのだろう。  自分たちが見たあれは、本当に茶屋の戸口などだったのだろうか。そうでなければ、一体。  瞬間、背後を煌々と照らしていた灯が消え小僧は驚き身を竦めた。囲炉裏の傍で声を上げる番頭を振り返れば、その向こう。二人が潜ったはずの戸口が煙の様に消えて無くなって行く。まさか、そんな。眼に映る物を信じられず思わず踏鞴を踏めば、先程まで土間であったはずの床が暖簾の向こうと同じ滑った柔いものと化している。遮二無二に呼びつける番頭のへ駆け寄ろうとするが、踏めば沈む様な足場でまともに走れる訳も無い。膝から崩れ座り込んだ途端、身体が背後に引かれる感覚に思わず声を上げた。  地面が傾いている。  思考の端でなんとかそれを理解すると同時に、増して行く角度に耐え切れず小僧の尻は地面から離れてしまう。落ちる。必死に手を伸ばすが掴める物は何も無く。瞬きの間に壁の様に立ちあがった地面に爪を立てれば指先が嫌な音を立てた。番頭の悲鳴が闇に木霊する。  落ちて行く。どこへ。あの、暖簾向こうの突き当りにぽかりと空いた穴の底へ。  身体が浮遊する感覚に目を見開く。  落ちて行く小僧の視線の視線の先、潜ったばかりの戸口があったはずのその場所には身の丈ほどもある牙らしきものがずらり、と並んで。自分たちが物の怪の罠にかかった餌である事を、漸く小僧は理解したのだ。
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