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同棲編・4
翌日、朝からずっと頭がぽやぽやと浮ついて、出勤してからもぼんやり目の前の空間を見つめていた。自分の席に座り、珍しく出社している先輩たちの横でミーティングが始まるのを待っている。
今日は地方支社から転籍になった社員が来るらしい。普段は皆テレワークだが初日くらいは挨拶を……と集まっているのだが、今日の裕哉はそれどころではなかった。
緩む頬を隠すため、考え事をするように口元に手を当てつつ、適当な仕事の資料をパソコンで眺める。画面を見ているフリをして、瞳は昨夜の情事を映していた。
正直、めちゃくちゃ良かった。
世界にこんな気持ちのいい行為が存在して大丈夫なのか疑問に思うくらい、気持ち良かった。
向かい合い手を握って眠り、朝はキスで起こされて、七斗の用意してくれた朝食を食べた。その間もずっと夢心地で、「そんな隙だらけの顔で大丈夫?」と七斗に笑われるほどだった。
これから何度もあんな体験を共に重ねるのか。そのうち自分がおかしくなってしまうのではないかと、少し怖い。それくらい、七斗との行為は魅惑的で、禁じられた果実を齧るような甘い中毒性があった。
「みんな注目ー。ミーティング始めます」
パソコンの並んだデスクの間をぬって、部長と主任が現れた。主任の声に先輩たちはその場で立ち上がり、裕哉も立ち上がって体を部屋の前方へ向ける。
いつまでも浮かれていては仕事にならない。いい加減しっかりしないと。
気持ちを切り替えようと顔を上げる。部屋の半分には部員たちのデスクが向かい合わせに二列ずらりと並び、残り半分は背の高いサーバー機器が所狭しと並んでいる。部長たちはサーバーを背に、デスクの前に立つ裕哉たちの方を向いて立っていた。
「紹介します。今日付けで情報システム部に配属になった猫宮光矢君です」
主任の隣に立っている体格の良い男性が、ぴっと背筋を伸ばしたかと思うとその長身を折ってお辞儀した。
「猫宮です。上京したばかりでわからないことだらけですが、精一杯頑張るんで!よろしくお願いします!」
外の廊下まで聞こえそうな溌剌とした声と、顔を上げた後の爽やかかつ無邪気そうな笑顔に面食らってしまった。
裕哉だけでなく、周りの先輩も驚いて目をぱちくりさせている。情報システム部は仕事の機密性の高さから、関係者以外は作業場に立ち入ることができず、他の部との関わりも少ない。
おまけに仕事自体も黙々とパソコンに向かい合うことがほとんどで専門知識が求められることから、割と内向的で静かな者が多い。猫宮のような明らかに体育会系の部員は珍しかった。
「猫宮君はまだ二年目だが北関東支社のシステムを一人で面倒見ていたそうだ。即戦力になってくれるとは思うが、新しい環境で分からないことも多いだろうから、みんなよろしく」
部長は室内を見渡して、場を和ませようと思ったのか、猫宮に目を向ける。
「いやぁ、しかし、猫宮君みたいな若くて爽やかな子はうちの男所帯には勿体ないね。さぞかし女の子にモテるだろうに」
部の中でも、裕哉をはじめとする若手たちの空気がピシッと張り詰めた。
自分たちが間接的に蔑まされたからではない。今の発言は、近年の観点から考えれば立派なセクハラだ。若ければ若いほどハラスメント問題には敏感な傾向があり、場合によってはあっという間に訴えたりする者もいる。SNSでは後輩に訴えられたとか、上司を訴えたといった投稿を見かけるのも日常茶飯事だ。
恐る恐る、猫宮の表情を盗み見た。面倒事は勘弁してほしい……と思ったのだが、本人はけろりとした顔で、笑いながら顔の前で手を振って否定する。
「いやいや、女性苦手なんで男性だけのほうがありがたいっす」
軽く流したその様子に、年下ながら部長よりよっぽどできた人間で感心した。
彼も陽キャだけれど、七斗とはまた違うタイプの陽キャだ。などと思いながらホッと息をついた裕哉の目の前で、猫宮はさらに言葉を続けた。
「それに俺、ゲイなんで女の人には全く興味ないです」
今度は若手のみならず部屋の空気が丸ごと固まった。
——今なんて言った? ゲイ? いや性的嗜好は自由だし、実際自分も似たようなものだけど、職場でこんなサラッと大公開するか……!?
どんな反応をすれば良いのかわからず裕哉が目線だけで周囲の反応を窺っていると、部長がパッと己の体を抱きしめるように腕を交差した。
「えっ、え? それは男が好きってこと? 俺のこと狙わないでね」
言葉に対する嫌悪が思わず顔に出てしまった気がする。どうしてこの人はこうポンポンと他人の地雷を踏むようなワードを連発するのだろう。
ゲイだからって相手が誰でもいいわけじゃない。これ以上偏見にまみれた発言をする前に誰か止めてくれないだろうか。祈るような気持ちでじっと黙っていると、猫宮が悲しそうに項垂れた。
「残念ながら部長は俺の好みではないので、無理です。申し訳ありません」
きっぱりと断った猫宮の言葉が、静かな部屋になんとも言えない余韻を残す。一拍置いて、誰かがぼそりと呟いた「告白する前にフラれてる…」という言葉にどっと笑いが起きた。
「部長、やっぱりそのお腹引っ込めないと男女関係なく振り向きませんよー」
笑いが起きたことをきっかけに、先輩たちが冗談めかした口調で部長を諫める。部長本人も自分の失言に気付いたようで、恥ずかしそうに後頭部の髪を撫でつけていた。
そのままの流れで、和やかに今日の仕事内容や現在の進捗状況について報告が始まる。たった今猫宮から飛び出たとんでもないカミングアウトなどなかったかのように——あるいは、彼がゲイであることを自然に受け入れたように、皆いつもと変わらない顔をしていた。
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