同棲編・9

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同棲編・9

「おはよーございまー……って、うわ、後川さんが落ちてる」  サーバールーム入り口の閉まる音がした後、頭上から猫宮の声がした。  会社のデスクに突っ伏したまま首だけ動かして、出社してきたばかりの後輩に目を向ける。 「……おはよう」 「どうしたんすか。その様子だと、昨日も彼氏さんに抱いてもらえなかったんですか?」  ゆっくりと体を起こして、頷いた。猫宮は荷物を降ろして隣の席に座り、やれやれと首を振っている。昨晩のことを誰かに話さないと今日一日とても仕事ができそうになかったので、今日も出社が二人きりで幸運だった。 「彼氏さんも頑固ですねぇ。恋人のことこんなに焦らすって、俺としてはどうかと思うんすけど……。そういうプレイなら別ですよ?」  軽口を挟みながらさり気なく慰めてくる。そういう気の遣い方はやはり陽キャだな、と思うと同時に、七斗に少し似ていると頭の隅で思った。 「昨日さ……教えてもらった前立腺、ちゃんと触れて。……中イキも、できたんだけど」 「え、良かったじゃないですか。むしろそこまでして突っ込まないでいられるって、どういう鋼の精神……?」 「前立腺の場所を猫宮に教えてもらったっていうのが、バレちゃって」  結局、七斗は寝室に戻らないまま、一人で眠るには広過ぎるベッドで一夜を過ごすことになった。  朝一番に謝ろうと裕哉が起きたときには、既にリビングに七斗の姿はなく。丁寧にラップされた朝食と、先に出社する旨を書き残したメモが置かれているのを見て、朝から泣きそうになるのを何度も堪えた。 「俺は……俺は恋人のために適当な嘘もつけない、クソ不器用ヘタレ野郎だ……。お前にも俺たちのこと勝手にベラベラ話したし……そもそも七斗本人に最初からキチンと相談してれば……愛想尽かされる……」  同棲を始めてから、毎日一緒に朝食をとって、一緒に出勤していたのに。最後に見た苦しそうな顔が頭から離れない。 「別れたくねぇよお……」  マイナス思考は一度加速を始めたら止まらない。自分の至らなさで嫌われてしまうのではないかと気が気ではない。この過ちを挽回できるなら何でもするのに。償い方もわからない。元々七斗が裕哉のことを好きになってくれたのだって奇跡のようなもので、やはり自分は釣り合う人間ではなかったのだ。  視線も気持ちもみるみる下へ落ちていく様子を見て、猫宮は怪訝そうな顔になる。少し考えて、首を傾げた。 「……え、待ってください。それだけ? 俺に前立腺の場所を口で説明されたって、それで彼氏さん怒っちゃったんすか?」 「怒ったかどうかは……わからない。あいつが怒ってるところ、見たことねーし」  俯いて指先をいじいじと動かしている裕哉に、猫宮は苦笑した。 「いやいや、今どき学生だって友達とセックスの話ぐらいしますって。それって彼氏さん怒ったんじゃなくて——」  言いかけて、ふと真剣な目になり、視線を上げる。遠くを見ながら自分の顎に手を当てて独りごちた。 「……思ったより面白いことになってんな」 「へ?」 「何でもねーっす」  小さな呟きに聞き返すと、猫宮はいつもの爽やかな笑顔でひらひらと手を振った。 「ってか、昨日が初めての中イキだったんですよね?」 「あー……うん、そう」  照れ隠しに首の後ろを指で掻く。前を触らずに射精するなど、間違いなく昨日の経験が初めてだ。  今でこそネコ——セックスにおいて、所謂女役として七斗に触れられているわけだが、今まで裕哉はごく一般的な価値観でノンケとして生きてきた。そのことが、後ろの刺激だけで気持ち良くなれるという事実にまだ羞恥心を残している。  今日も他の同僚は皆在宅勤務を選択していて、サーバールームには裕哉と猫宮しかいない。だからこそこんな赤裸々な話ができているのだが、誰に聞かれるわけでもないのに猫宮は秘密の話をするように距離を詰めてきた。声のトーンを落とし、楽しそうに囁く。 「初めて中イキした次の日って、ちょっとしたことで甘イキしちゃうから気を付けてくださいね❤︎」  突然耳元で囁かれた艶めいた声に、裕哉は耳を押さえて飛び退いた。 「っ!? お、おま、お前! そういう冗談やめろ」  けらけらと声を上げて笑う猫宮の様子を見て、揶揄われたのだと気付く。羞恥だったり悔しさだったり、色々な感情で悶々としながら、恥ついでに思い切って疑問を口にした。 「……甘イキって何?」  猫宮は大口を開けて笑った顔のまま、ぴし、と一瞬固まった。 「……マジ? そこからっすか? もしかして後川さんってノンケ処女云々以前に、童貞……?」 「……悪いかよ……。どうせ俺は性交渉の機会にも恵まれない陰キャだよ」 「いやいやいや、いいんですよ別に。変に落ち込まないでください。えーっと、甘イキっていうのはつまり、射精はしないけど尻がきゅんとする感じっていうか、軽くイってる感じになるというか……」  身振り手振りを交えて説明されるが、いまいちよくわからない。首を傾げつつ真剣に話を聞いていると、外からの来訪を知らせるチャイムが鳴り響いて、二人して小さく飛び上がった。  完全に手を止めて話し込んでいるが、今は就業時間中である。しかも話の内容は他の社員にはとても聞かせられないような生々しい性事情。少しの後ろめたさを抱えていたのは猫宮も同じだったのか、慌てて席を立ち、部屋の出入り口へと向かっていった。  一般部署の出入り口は自由に通行可能になっている。情報システム部はサーバールームの中に作業場を設けているため、基本的に部員しか扉を開錠することができないのだ。そのため、部屋の外から来訪があった際にも気付けるよう、入り口横にインターホンを設置している。  情シスなんて辺鄙な場所に用のある人は滅多にいないので、わざわざ訪ねてくる人もあまりいない。つまり、呼び出しチャイムを聞くこともあまりない。それも相まって心臓が跳ねるくらいびっくりした。 「後川さん」  戻ってきた猫宮の、先ほどまでと変わって落ち着いた声に嫌な予感がした。 「人事部の人でした。後川さんに用があるみたいで、外で待ってます」  指で示された部屋の入り口に目を向ける。扉の向こうが透けて見えるわけではないが、嫌な緊張感に顔をしかめた。人事部が絡んでくるなんて個人情報満載の面倒なシステム管理依頼か、あるいは、裕哉自身に関することであれば更に面倒くさい。  席を立って廊下に出ると、裕哉よりも少し背の低い小柄な女性が待っていた。 「後川君、久しぶり。同期の笹井です。業務中にごめんね。今大丈夫?」  控えめで腰の低い様子を見て、脳裏をよぎったのは新入社員研修の記憶。彼女は確か、裕哉や七斗と同じグループで研修を受けていた同期入社の女子だ。  新入社員の頃は髪を一つに束ねていて化粧ももっと薄かったので、だいぶ変わった印象を受けた。 「あ、うん。大丈夫。今日は、そんなに忙しくないから…… 」  少々早口になりながら、視線を斜め下に落とす。七斗と恋人になって、猫宮とも親しくなって、突然近くに陽キャが増えたことで自分も少しは変わった気になっていた。だがそれはとんだ勘違いで、特に親しくない人とは今も目を合わせることすら難しい。  人間そんな簡単に変わるわけがなかった——誰に言われるでもなく突き付けられた事実に打ちのめされる。自分は所詮根っからの陰気人間なのだ。 「今度、広報誌の社内インタビューに載せる人を探してるんだけど、良かったら協力してもらえないかと思ってて」  面食らって思わず「え!?」と声を上げた。 「広報誌……!? お、俺が? どうして?」  広報誌といえば、社内だけでなく社外にも広く配布される冊子だ。内容は事業に関してはもちろん、社会奉仕活動や部活動に関してなんかも情報を載せる。そんな場所に、なぜ。日々コツコツと社内システムを改善していることがついに認められたのか。  沈んだ心に淡い期待が浮かび上がる。ところが、目の前の笹井から放たれた一言によって、裕哉の気持ちはすぐにもう一度沈み込んだ。 「後川君って……檜前君と付き合ってるよね?」  まさに頭から突然冷水をぶっかけられたような気分だった。氷の針のように鋭い冷たさが刺さる。さぁっと血の気が引いた。 「……あ、お、おれと……? え、その、なんで? じゃなくて、ど、どこから」  ガチガチになった手がぎこちなく動いて、なんとか声を絞り出した唇は乾いていた。  知らないふりをして首を傾げるか、なんなら笑ってすぐに否定すれば良かった。昨夜の七斗との一件から何も学んでいない自分に絶望する。真っ直ぐに問いかけてきた笹井は初めこそ疑い半分な様子だったが、事実だと証言するような裕哉の慌てぶりに確信を持ったようだった。 「本当に? 恋人として交際してるの?」  ずい、と距離を詰めてきた背丈は自分よりも低く体格も華奢なはずなのに、信じられないほど迫力があった。  ここで嘘をつけば取って食われてしまうかもしれない、そんな恐怖に押し負けて、震える指先を握りしめたまま力なく頷いた。  やっぱり、と呟いた彼女は驚いた様子ではあるものの、特に衝撃を受けているようではなかった。 「この前出してもらった住所変更届を見たら、檜前君と同じ住所だったから、もしかしてって思ってたの。私たち同期だから社員番号が連番でしょ? 住所とかのリストって、社員番号順に管理してるからすぐに気付いたよ。最近二人の仲がいいって同期の間でも話題になってたし……。誰にも言ってないし、言うつもりもないから大丈夫」  裕哉は切れるのではないかと思うほど唇を噛んだ。当然の手続きだと思って何の疑問も躊躇いもなかったのだが、馬鹿正直に檜前と同じ住所を報告したのは迂闊だったかもしれない。昨日からこんなことの連続で本当に参る。 「でも、その、お、俺……俺と、檜前が、つ、付き合ってるとして、広報誌の、話と、何か関係あるの……?」  自分のことも七斗のことも知っている女性同期にどう思われているのか不安で、まるで上手く喋ることができない。視線がこれでもかというほど泳ぐ。 「うん。次の広報誌で、会社のジェンダー問題を取り上げるんだって。何人かの同性愛者の人とか両性愛者の人とかにインタビューに答えてもらう予定なんだけど、社内の同性カップルはまだ聞いたことないから、もし良かったらどうかと思って。もちろん、プライベートな話だし、断ってくれても全然大丈夫」  こちらの顔色を窺って、慎重に言葉を選んでくれているのがわかる。彼女に悪意はない。だが会社の人間どころか社外にまで大公開するなんて、自分にはとても無理だ。 「俺は……」  断ろうとして、言葉が詰まる。マイノリティな事情を公開するなんて自分にはできない。  けれど、七斗はどうだろう。  裕哉に比べて社交的で前向きな考え方の七斗は、別に嫌ではないかもしれない。むしろ、周りに隠れて関係を築いていることに居心地の悪さを感じている可能性もある。  個人的な秘密を知人に知られて、あまつさえそれを公開しないかと提案されて、今の自分は混乱している。ここで返事をしてまた取り返しのつかないことになるよりは、一度冷静になってじっくりと考えるほうがいいと思った。 「……。あの、返事、また今度でもいい……かな。俺一人の話じゃないから……相談しないと」  おどおどして視線をあちこち彷徨わせていた裕哉がきちんと言葉を返したことに、笹井は少なからず安心したようだった。 「うん、大丈夫。ほんと無理しなくていいから。檜前君にもそう伝えてね。忙しいのにありがとう」  こちらが上の立場というわけでもないのにぺこぺこと頭を下げて、背中を向けながら控えめに手を振って、笹井は去っていった。終始愛想の良い笑顔を浮かべていた彼女は、裕哉から見ても素敵な女性だった。  それこそ、七斗は本来ああいう可愛らしい女性と付き合うべきではなかったのかと、塞いだはずの心の穴に隙間風が吹くくらい。  胸の辺りに重りをぶら下げたような気持ちのまま、裕哉はのろのろとサーバールームに戻った。猫宮はパソコンに向かって真面目に仕事をしているようだったが、椅子に座り脱力した裕哉を見て作業の手を止めた。 「…………はぁ……」 「面倒な仕事頼まれました?」 「いや……、それが……」  ずるずると背もたれに寄りかかり、高い天井を見上げる。そのまま、今あったことを話した。  同期の笹井に七斗との関係がバレてしまったこと、広報誌のジェンダー記事に載せるインタビューを打診されたこと、自分は嫌だけど七斗がどう思っているかわからなくて不安なこと。最後はほとんど泣き言になっていた。  昨夜の七斗との問題もあって、裕哉の頭はすでに処理できるだけの許容量を超えている。誰かに話を聞いてほしかった。 「俺、もうわかんねーよ……。恋愛経験値どれだけ低いと思ってんだ。無理。俺は七斗と一緒にいたいだけなんだよ。……恋人として……」  唸って両目の目頭をぐりぐりと解す。恋愛がこんなにも難しかっただなんて、想定外だ。恋人ができた途端次から次へと難題が降ってくる。一体何が正解なのか、誰か教えてくれないだろうか。  それまで黙って話を聞いていた猫宮が、腕を組み、真剣な顔をこちらに向けてきた。 「後川さんと檜前さんは、一度腹割ってちゃんと話したほうがいいんじゃないっすかね」 「腹割る? ……確かに、俺ひとりで悩んだっていい答えなんか出ないし、正直に七斗に相談して……」 「それもそうですけど。俺は檜前さんのほうも、自分の気持ちを全部綺麗に話すべきだと思いますね」  裕哉は首を傾げた。まるで、七斗が裕哉に隠し事をしているかのような言い種だ。  真剣な表情を崩してニッと笑った猫宮は、悪戯を企む少年のように、形の良い口角をつり上げる。 「いい考えがあるんで、男同士のプロの俺に任せてみませんか?」  七斗を頼るよりも先に猫宮を頼るのは、ちょっとした裏切りのようで、また彼を傷付けるかもしれない。それでも今の裕哉が協力を仰げるのは猫宮だけで、既にいっぱいいっぱいの自分が自力でこれらの問題を解決できるとも思わない。  考えて、恐る恐る首を縦に振った。 「……とりあえず、話だけ」 「そうこなくっちゃ」  景気よく手を叩く音が、二人だけのサーバールームに響き渡った。  
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