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同棲編・10
裕哉が猫宮に助力を求めた日の夜。七斗は部屋でひとり焦っていた。初めて裕哉を自宅に招いたとき「一人で住むには広すぎる」と言われた言葉の意味を、痛いほど感じていた。
広いリビングを右から左へ。ダイニングキッチンをぐるりと回って、脱衣所の洗濯物を畳んでみる。思っていたよりも早く済んだので、今度は食洗機の中ですっかり乾いた食器を棚へ片付ける。それも済んでからはテレビ番組を眺めつつワイシャツにアイロンをかけた。
画面の中の人々は路線バスで旅をしながら、各地の名産品や郷土料理を満喫している。終始楽しそうに笑っている弾んだ声が、妙に虚しく聞こえた。
深いため息をつく。そういえば、先ほど適当に食べた夕飯も何だか味気なかった。何を食べたのかすら、曖昧になっている気がする。
原因はわかっている。朝から一度も裕哉に会えていないこと。昨夜彼を拒絶してしまったことに対する罪悪感と自己嫌悪。今頃その裕哉と共に居酒屋で食事をしているであろう彼の後輩に対する、猛烈な嫉妬。そういうものが腹の奥でめちゃくちゃに絡まり合って、黒く渦巻いていた。
彼の前ではもっと余裕のある男でいたい。その願いとは裏腹に、彼のことになると子供のように感情が制御できなくなる自分がいる。我が儘で自分勝手で、まるでスマートじゃない。そんな自分を裕哉には見せたくなかった。
三年近く拗らせた感情を無理に押し込めようとした結果がこれだ。数年ぶりに裕哉と会社のロビーで再会してから、この感情は厄介な方向に成長を続けている。
「かっこ悪いなぁ」
綺麗に畳み終えたワイシャツを脇に置いて、アイロンの電源を切った。
次は風呂の準備でもするか、と立ち上がりかけた時、ポケットに入れていたスマホが鳴った。慌てて取り落としそうになる。画面には裕哉からの着信を知らせる表示が出ていて、部屋の壁掛け時計に目を向けながら応答ボタンを押した。一気にぶり返した焦りで心拍数が上がり、指が震えた。
「裕哉? 今どこにいるの? もう終電なくなっちゃうからタクシーで……」
繋がった途端、裕哉の返事を待たずに言葉が滑り出す。もうあと一時間もすれば日付が変わってしまう。こんな余裕のない自分ではダメだと考えていた直後だというのに、とにかく一秒でも早く裕哉の顔を見て安心したかった。
裕哉の声は返って来ない。代わりに、スマホから発せられた声に七斗は凍り付いた。
「あ、もしもし。後川先輩の彼氏さんすか」
知らない男の声。胸の辺りがギュッと苦しくなって、堰き止められた血液がどろりとした別の何かに変わっていくような、おぞましい感覚がした。
今鏡を見たら、きっと、目だけで人を殺せそうな顔をした自分がいるだろう。冷えて鋭さを帯びた心の隅で、妙に落ち着いた思考が働いていた。
「………………どちら様かな?」
「うわ声怖っ。凄腕の営業さんて聞いてるんすけど、そんなんじゃお客さん尻尾巻いて逃げますよ」
深く、深く息を吐いて無理矢理に感情を殺した。
「……君が猫宮君だね。今は何も聞かないから、お店の名前だけ教えて」
最大限に警戒している七斗に対して、猫宮は軽やかに言葉を返す。まるでスキップでもするかのような余裕のある態度が余計に癪にさわった。
「新宿の『福之坂』って居酒屋です」
「どうもありがとう」
返事も何も待たずに、通話の終了ボタンを押した。立ち上がり手近なジャケットを羽織って、財布をポケットに捩じ込む。今ならまだ終電に間に合うし、新宿に行くのならそれが一番早い。
靴を履き、玄関ドアを開ける前に脇に設置された姿見へ目を向けた。
酷い顔だ。不機嫌を隠しきれない眉間の皺、優しさのカケラもない鋭い目つき、真一文字に結ばれた口元。七斗自身もこんな己の顔は見たことがない。
それでも——仕事用にきっちり整えられた髪、質の良い服と靴。裕哉と付き合うまではほとんど価値を見出さなかった自分の顔や体格も、今は頼れる武器のひとつだった。戦いに行くには申し分ない。
取っ手を掴み、重い玄関ドアを押し開けた。
店名で検索したときから嫌な予感はしていたのだが、『福之坂』は個室の居酒屋だった。店員に通された個室の引き戸を開けた途端、足音に気付いていたのか、こちらに目を向けていた男とバチッと目が合う。
「あ」と声をこぼした彼にしばらく正面から視線をぶつけた。短髪に爽やかな出で立ち。話に聞いていた通り、服の上からでも非常に逞しい体をしていることがわかる。情シスで社内仕事をしているだけとは思えない、人に見られることを意識した背格好。
間違いない。彼が猫宮だ。
「後川さん、ほら、彼氏さん来ましたよ」
猫宮はテーブルを挟んで向かいに座る裕哉の肩を揺すった。裕哉はというと、相当飲んだのかテーブルに顔を伏せている。
体が揺れたからなのか、半分寝ぼけているのか、喉から「うぅん……」と呻きを漏らした様子を見て、七斗は一歩前へ出た。
肩に触れている猫宮の手首を掴んで、裕哉から離す。
形だけとはいえ、こんな時に笑顔を作ることのできる自分に驚いた。
「ありがとう猫宮君。裕哉が世話をかけたね」
「いえいえ、大したことはしてませんから。それにしても来るの早かったっすね。でも、もう少し遅かったら俺が連れて帰るところでしたよ」
冗談とも本気ともとれる言葉に頬が引きつりそうになる。それなりに威圧的な空気を放っているつもりなのだが、まるで怯む様子がない。それどころか、貼り付けた笑顔の下で炎々と嫉心を焦がしている七斗を、面白がっているように見えた。
「そうならなくて良かった」
言葉の角を丸めるのも億劫になってきた。裕哉の鞄を持ち、空いた手で肩を貸して立ち上がらせる。
もともと軽い体は七斗に支えられて難なく立ち上がり、転ばないよう腰に手をまわす。引き寄せると、裕哉は俯いたまま不自然にビクリと体を震わせた。
「……?」
どこか痛かっただろうか。表情の見えない顔を覗き込もうとした時、猫宮が再び口を開いた。
「檜前さん」
足を止めて顔だけ振り返ったのは、彼の声色が少しトーンを下げ、こちらを挑発するような語気をはらんでいたからだ。
「まだ何か?」
「後川さんって可愛いっすね」
にこ、と愛想良く口角を上げて笑う。
「俺はコッチ側の人間なんで、勘でわかります。早いとこ自分のものにしないと俺みたいな悪い虫が齧っちゃいますよ」
向けられる瞳をじっと見つめ返しても、その真意は掴めない。訝しむ態度を隠すこともやめた七斗に、猫宮は肩をすくめた。
「ここの会計は俺が持つんで、先輩が起きたら伝えといてください」
その言葉に、七斗は自分のポケットに手を突っ込む。財布から素早く万札を一枚取り出して、テーブルの上を殴る勢いで乱暴にダンッと置いた。
さして驚きもしなかったくせに、わざとらしく身を竦ませて猫宮が声を上げる。
「ひぃー怖っ」
楽しそうにも見える様子に腹の奥がちりちりと痛む。こいつは人を苛立たせる天才なのか。
これ以上この男に構う必要はない。よろめきながら身を寄せてくる裕哉を抱えて、七斗は店を出た。
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