都市国家のググレカス

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都市国家のググレカス

 時は紀元前、古代ギリシアの都市国家アテナイ。街はずれにあるニーチャの広場で、哲学者ググレカスは今日も仮面を被って匿名の会話を楽しんでいた。 「この前離島に住んでいる友人が港で立ち往生しているのを見かけて、所持金を尋ねると20オボルスしかないという。これでは家に帰れないというので金を貸してやろうと銀行で金を下ろしてきたら、戻ってきた時には8オボルスしか持っていなかったのだ」 「野盗の被害にでも遭ったのか?」 「喉が渇いたのでその辺の店に立ち寄ったらしい」 「ポスカ飲んでんじゃねーよ」  ニーチャの広場は仮面を被って一定の料金を払えば誰でも出入りすることができ、あらゆる話題について匿名で雑談したり議論したりできることからググレカスのような話し好きの人間が集う場所となっていた。  この広場にはロムレー主義と呼ばれる特有の規律が存在し、広場に出入りし始めてから半年が経つまでは一切の発言を控え、他の参加者の会話や議論を見学するのに専念すべきとされていた。この規律によりニーチャの広場で発言する人物にはある程度以上の良識を持つ者が多く、時にトロールと呼ばれる他者の会話をかき乱す厄介者が現れつつも、広場では概ね平和的に匿名での交流が行われていた。  そんなある日、ググレカスは最近民衆の間で人気を博しているとある施設の噂を耳にした。  ニーチャの広場よりも街に近い地域に置かれたその施設はツィターの集会所と呼ばれ、参加者は仮面を被っていても被っていなくてもよい上に入場料は無料となっていた。  参加者の高齢化により最近では若者の意見を聞ける機会が少なくなり、トロールの氾濫も目につくニーチャの広場に限界を感じていたググレカスは、新調した仮面を被ってツィターの集会所に出入りするようになった。  ツィターの集会所には確かに子供や若者らしき参加者の姿も多く、有名な学者や劇作家も仮面を被らずに出入りしていて、ググレカスは新たに出会った人々との交流を楽しみにしていた。  しかし、彼がこの集会所にも幻滅する日はそう遠くなかった。 「皆さん、見てください。この前新しい仕掛け網を作りまして、大きな魚を何匹も獲ることができたのです。これがその証拠です」  ある日の朝、釣りを趣味としている金属器職人は先日の釣果を人々に紹介し、見事な魚拓を見せつつ新たに開発した仕掛け網は自らが経営する店でも販売すると話していた。  職人が見せた魚拓には大きな魚の姿があり、話を聞いていたググレカスはこれほどの魚を仕掛け網で取ることができれば確かに便利だろうと感嘆していた。  そんな中、職人の話を聞いていた参加者の一人が口を開いた。 「魚拓は確かに見事ですが、それは本当に仕掛け網で取ったものなのですか? 宣伝のために魚拓を偽造しているということはありませんよね?」 「そのようなことは断じてしておりませんし、私が作った仕掛け網を実際に使って頂ければお分かりになることと思います。もしよろしければ、今度その仕掛け網を使って魚を取る所をお見せしましょうか?」  職人は釣果を自慢するふりをして商品の宣伝をしていた節があり、この広場は商用目的での出入りも認められているので決して問題行為ではないが、話に嘘がないかを確認するための発言が出るのは自然なことだった。  魚拓に疑問を口にした参加者が頷いた瞬間、別の参加者が発言し始めた。 「それにしても、仕掛け網で捕らえた魚を釣果として自慢するのはいかがなものでしょうか。私は長年釣りを趣味としていますが、釣竿で釣った魚以外は釣果とは思いませんよ」 「私もその意見に同意します。仕掛け網で魚を獲って魚拓としても、一体何が面白いのでしょうか」 「ちょっと待ってください、そちらの職人さんは自作の仕掛け網の便利さを紹介していたのであって、釣果の定義はどうでもよい話ではないでしょうか」  議論が迷走していくのを見かねたググレカスは、発言していた参加者たちにこの場における話題の本質を指摘した。 「定義はどうでもよいとは、なんと愚かな意見でしょう。そのように定義というものを軽視する政治家が多いから、最近のアテナイでは政治の腐敗が進んでいるのです」 「政治の腐敗? それはあなたの意見ですよね。私は今のアテナイの政治には何の不満も持っていませんし、政治批判ばかりしている人間こそ見下しますがね」 「あなたこそ政治に無関心すぎるのではないですか? そのような人々を愚民と呼ぶのですよ」  ググレカスの指摘も虚しく、他の参加者たちは次々に議論の方向性を逸らしていき、職人が作った新しい仕掛け網の話は忘れ去られて政治に関する論争が始まっていた。  ググレカスが後で知った所によると、ツィターの集会所では他の参加者の意見に的外れな意見をぶつけては主題を無視した議論を始める参加者が問題となっており、そのような人々はクリソプの民と呼ばれていた。  ツィターの集会所に出没するクリソプの民に違和感を覚えたググレカスは彼らの言動を注意するようにしたが、元々まともな議論が成り立たない彼らにググレカスの言葉が届くことはなく、注意された瞬間にその場から逃げ出したり、ひどい時には注意されて心的外傷を受けたと騒ぎ立てたりするクリソプの民に、ググレカスの心は折れかけていた。  哲学者であるググレカスは彼らを論破する方法について考察し、ついに最も有効な反論を編み出すことができた。 「不倫していた妻と別れたのですが、驚いたことに元妻は、離縁の際は無条件に夫が慰謝料を払うものだと思っていたのです。あれにはほとほと呆れました」 「これだから女性は愚かなのです。結婚は人生の墓場とはよく言ったものですね」 「それは問題発言でしょう、私の知る限りでは不倫をするのも相手に不倫される原因を作るのもたいていは男性ですよ」  元妻の異常さを嘆いていた参加者に対し、話を聞いていたクリソプの民は例によって的外れな意見を口にして、いつの間にか議題は男女問題全般に移ろうとしていた。  今がその時だと思い立ったググレカスは、 「そんなこと、人によるでしょう。男だから女だからと決めつけて何になるのですか」  最も有効な反論を口にし、その意見には誰も異を唱えることができなかった。  このように人前で論破していけばクリソプの民は姿を消してゆくだろうと考えていたググレカスだが、現実はそう甘くなかった。  ググレカスが編み出した「人による」という反論はあらゆる意見を封じることができる便利な言葉としてツィターの集会所で流行するようになり、集会所にはいつしか当たり障りのない会話しかできない空気が醸成されていった。 「オリュンポスの神々よ、私は罪深い人間です。人々をクリソプの民から救うつもりが、私自身がいつしかクリソプの民となっていたのです。私はこの罪をどう償えばよいのでしょうか」  久々に神殿を訪れたググレカスは、神々に対して自らの行いを懺悔(ざんげ)した。  女神像の前で沈痛な表情をしたググレカスに、神々は啓示を与えた。 『ggrks』  その啓示は古代ギリシアの言語体系も理論体系も超越していたが、ググレカスはこのようなことで神々を頼ろうとした自らの愚かさを思い知った。  ググレカスはツィターの集会所に出入りするのを控え、哲学者としての思索にふけりつつ、考えたことを文書にまとめた上で実名で発表するようにした。  匿名での会話や議論の心得について記した著作が人気となり、街角の哲学者として有名になったググレカスは仮面を被らずともツィターの集会所に出入りできるようになった。  集会所に出入りする度に参加者が自分の話を聞きに集まる身分となり、人々が彼の著作の記述を引用してクリソプの民を批判するようになった時点で、ググレカスは自らがその使命を終えたことを理解した。  十分な蓄えを得たググレカスは隠居を表明し、新たな仮面を被って再びニーチャの広場に出入りしている。  (完)
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