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【8】相合傘
翌日、私はちょっと一人で考えてみる事に決め、誰も連れずに王都の街中で買い物をすることに決めた。侯爵家の人間だと露見すると騒ぎになるので、お忍び用の簡素な衣服を着ている。それでもチラチラと視線が飛んでくるので、恐らく物腰などで貴族だとバレているのだろうと私は思う。何故なのかいつも気づかれてしまうのだ。
角を二つ曲がり、私は半地下にある古書店を目指した。
実はこの場所は、ひっそりとお父様に教えてもらったお店で、稀覯書がたくさん置いてあるのである。また、王宮の宝物庫や、王立図書館にも存在しない、召喚獣の古代文字の辞典まで置いてある。
明日の学院の講義では、クライに文字について直接質問しようと思っているが、その前の下準備は大切だ。それもあって、今日はここにやってきたのである。
魔方陣には召喚獣の古代文字を刻む。
昨日クライが持っていた本は、その一文一文に魔力が込められている――イメージとしては、魔方陣が本になったものである。この人間の王国にも、魔道書形態魔術というのは存在した歴史があるが、今は廃れている。その廃れた魔道書のいくつかも、このお店には残っている。
まずは何から探そうかと階段を下りていき、私は召喚獣の歴史の棚を見上げた。
そもそも、クライに関する知識も、私には圧倒的に足りない。
恋以前の問題だ。私はよく知らない人(召喚獣)に恋はできない。
求めているのは、優しさである。
自由恋愛なんて考えてみたこともなかったし、今更言われても困惑するしかないが――今後は少しは考えようと思う。そして、きちんと自分がヴォルフ様を好きだと断言できるようにするのだ。この気持ちが恋だと確信できるようになるために、私は、私を好きだと言ってくれた人々の話が聞きたい。
だが、気持ちを弄ぶのは申し訳ないので、明日にでも一人ずつに断らなければ。
けれど嫌いじゃない場合の断り文句……何が良いのだろう。
そう考えながら踏段をひとつ登り、『クラインディルヴェルトの歴史』という本を抜き取った。それがあんまりにも厚くて重かったものだから、私は体勢を崩し、台から落ちた。だが、覚悟した衝撃はなかった。誰かが抱きとめてくれたからだ。
見れば驚いた顔をしているミネロム先生がいた。
「イリス? 大丈夫か?」
「は、はい! ありがとうございます」
「良かった……――どうしてここに?」
「先生こそ」
「俺は召喚獣研究が専門だからな、参考文献探しによく来るんだ」
「私は父に教わって、時折魔方陣考察のための本を探しに参りますの」
「そうだったのか。熱心だな」
支えてもらい、私は立ち上がった。まだ心臓がドキドキしている。
受け止めてくれた先生は、いつもは痩身に思えるのだが、男らしく硬かった。
それから私は他の棚を、先生も他の通路を見に行き、特に示し合わせたわけではなかったのだが、たまたま帰りに入口で遭遇した。雨が降っていたからかもしれない。先生が空を見上げていたから、私がその隣に立ったのだ。
「イリス、傘を持ってきたか?」
「ええ。先生は、お忘れですか?」
「ああ」
「よろしければ、ご一緒にいかがです?」
「良いのか? 助かる。本が濡れると困るんだ」
こうして私達は、王都の乗合馬車の停車位置まで一緒に歩くことにした。相合傘である。これが相合傘かと、私は少し楽しくなった。なので思わず微笑すると、先生が首を傾げた。
「機嫌が良さそうだが、目的の本があったのか?」
「いえ、相合傘が初めてなので」
「っ、げほ」
私の言葉に、なぜなのか先生が咳き込んだ。噎せている。
何度か咳をした後、先生が俯いた。
「大人をからかうな」
「――え?」
「なんでもない」
顔を上げた先生は、何故なのか真っ赤だった。雨に濡れたわけではないから、風邪ではないと思うが、咳もしていたし、少し気になる。元々風邪だった可能性を考えたのだ。私は少し背伸びをして、右手で先生の額に触れてみた。私の手の方が熱かった。
「!」
だが、先生がさらに真っ赤になった。耳まで真っ赤だ。私は首を傾げるしかない。
「先生?」
「……さっさと歩け。次の角を曲がれば広場だ」
「はい……?」
よく分からなかったが私は頷いて、足を速めた。
――轟音がして、目の前の壁が崩れたのは、その直後のことである。
雨の中に砂埃が舞う。違う――煙幕だ。
吸い込まないようにしなければと、腕で口を庇う。するとその時、背後に気配を感じた。咄嗟に振り返ると、巨大な鎌を振り上げた屈強な男が三人いた。
視線を戻すと、煙の向こうには、五人の人影が見える。
先生は? そう思った時、私の耳に声が入ってきた。
「クラインディルヴェルトを呼び出すための鍵言葉を言え! そうすれば命だけは見逃してやる」
私は目を瞠った。私が狙われているのだ。単なる物取りかと思ったが、違う。
焦燥感にかられた――その瞬間、ドサドサと何かが倒れていく音がした。
もう一度煙の方に振り返る。すると既に煙は晴れていて、その場に重なるように倒れている五人の男と、その男達を叩きのめしたらしい召喚獣の姿があった。巨大な一角獣である。
しかし先生の姿がない。私は残っている敵――鎌を持った人々に振り返った。
すると、一人は既に気絶していた。
残る二人の間では、先生が双剣を揮っていて、私が見ている前で、残りの二名も気絶し地に伏した。
早すぎて――気配がなさすぎて、私は気付かなかった。
先生が召喚獣を喚び出した事にも、その召喚獣と先生が敵を倒したことにも、ほぼ終わるまでの間、全く……。
「大丈夫か?」
「……」
そう問いかけられた瞬間、全身の緊張が解けて、私は倒れ込みそうになった。
先生が抱きとめてくれて、それから私の頬に触れた。
「クラインディルヴェルトはどうしたんだ?」
「家に置いてきました……」
「何を考えているんだ! しかもそんな軽装で護衛もつけずに! いつもの執事はどこだ?」
「家です」
「……――危険だ。お前は、ただでさえ今、国中の注目を集めている立場なんだ。こうやって狙われることがあっても当然過ぎる。俺には何も不思議は無かった。そうでなくともイリスのように若くて綺麗な女性は――……ああ、その、貴族のご令嬢なんだからもっと自分を大切に、きちんと守り抜け。危険が多いんだ、街は」
「申し訳ありません……」
「とにかく無事に済んで良かった。無事で……」
先生は、そう言うと、私を一度ぎゅっと抱きしめてから、立たせてくれた。
その暖かく大きな手に、私は胸の奥がトクンと熱くなった気がした。
「――送る」
「ありがとうございます」
こうして私は、先生に送ってもらい、帰宅した。
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