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「最近カフェには行かないんですね」
仕事の昼休憩中にオフィスで月見の入れてくれた珈琲を飲んでいると、突然そう話しかけられて俺はぴたりと手を止めた。
「ん〜?そうだっけか」
「なんですか、その分かりやすい誤魔化し方は。何かありました?」
月見の右手にキラリと光る指輪が着いているのを視界に入れながら、八重樫さんもあれみたいなもんだなって思う。
「凄く綺麗な物が目の前にあるけど、ガラスケースに隔たれて触れない時お前ならどうする?」
「…しばらく眺めてから、その場から立ち去りますね」
「そうだろ?そういうことだよ」
「……相変わらず訳が分からない人ですね貴方は」
そう言って微かに眉を寄せる月見に向かって、ちょっと難しかったか〜ってけらけらと笑いながら言ってやったら、癇に障ったのか大量の書類をデスクに積まれて俺は顔を引きつらせた。
「軽口叩けるならまだまだ働けますね、 常務」
「月見…お前は鬼だよ」
「いいから仕事してくれ」
呆れたようにそう言ってきた月見に分かったよって返事をして書類を1枚手に取る。
「なあ、ガラスケースの鍵を開けることが出来るのは今は1人だけみたいなんだ」
「…まだ言ってるんですか。それなら、貴方も開けれる人間になればいいでしょう」
月見の返答に、うーんって曖昧に答えて俺は書類にサインをする。
まだ顔を合わせたのは3回だけで、そのうちまともに話したのは1度だけ。
それなのに、俺はあの人のことが何となく気になって仕方ない。
これは多分一種の一目惚れの様なものだろうと思った。美しいものを見た時に、欲しいとつい思ってしまう感覚に似ている。
ガラスケースの中のそれに触れてみたい。
あの時、彼に一線を貼った俺は、裏を返せば持て余した自分の感情から逃げたのと同じなのだと思う。
「…羨ましいな…」
彼の平等を崩せる唯一の存在である瑞貴君が羨ましい。俺のつぶやきは月見には聞こえていなかったのか何も言われることはなかった。書類を次々に処理していきながら、あのカフェに行ってみようか…なんて考えが頭を過ってしまう。
行かないと決めたはずなのに、つい行きたいと思ってしまうのは、止むことのない彼への興味や好奇心が胸の奥を支配しているからだろうか。
「…明日はカフェ行くかもな〜」
「好きにしてください」
「冷たいねえ」
冷たい親友兼秘書の言葉にくすりと笑を零して、仕事に集中するために一旦彼のことを考えるのをストップする。
なんにせよこの書類をどうにかしないことには自由な時間など得られないのだ。
気合いを入れ直して、月見に詳細を尋ねながら書類を猛スピードで処理する。
社長の息子という肩書きと、それに付属するように付いてきた常務という役職は大変だけれど俺の人生を充実させてくれる。
仕事に集中すれば、いつの間にか八重樫さんのことは頭から離れていて、ただひたすら仕事のことしか頭に入ってこなくなった。
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