センペルビウム・ライラックタイム

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 パスケースを改札機に当てると、ぴっ、という音が鳴った。思わず私は左手をきゅっと握る。大丈夫。二つの重厚な機械の隙間を縫うように通り抜けていく。エスカレーターはゆっくりと上昇していって、もはや私に逃げ場はなかった。ほんの短い間、目を閉じてみる。駅の持つ独特な音の響きが、私の体の底まで揺らしているようだ。  まもなく、一番線に、各駅停車、京王八王子行きが参ります。  駅のホームにこだまするアナウンス。いつでも変わらないその声は時に、私を冷ややかに笑うようだった。大丈夫。地鳴りのように揺れ始める一番線のホームで私は、ワンピースの裾をぎゅっと握る。ホームになだれ込んできた各駅停車は、ゆったりと私の前に停車した。まるで私になんて目もくれない様に、あくびでもするかのように扉は開く。私はその扉の前で、出来限りの力を込めて、大きく目を見開いた。  ああ、でもやっぱり今日も、だめだ。  電車は静かに口を閉じると、どこか遠くへ向かってまた走り出して、今日も私ひとりを置いてけぼりにする。花柄のワンピースの左側の裾には、私の指が深く皴を作って。  今日もまた、乗れなかった。 *   「でもあんたたち、結構長く付き合ってたもんね。それはショックも大きいよ。時間が解決する問題もあるけどさ、どちらかというと時間が深刻にする問題の方がこの世界には多いと思うのあたしは。受験だって部活だって恋愛だって、長いこと一つの目標に向かって頑張り続けるわけでしょ? そういう時間が長ければ長いほど、終わった時の胸の張り裂ける思いは鋭くなっていくんだよ。そりゃあたしは大した大学は受からなかったし部活も弱小でしたけど。でもあんたはほら、何でもかんでも真面目に頑張っちゃうでしょ? だからほら、たまにはさ、こういう気楽でいられる時間を自分に作ってあげなって、ね? あんたは昔からそういうさ、息を抜くっていうか、肩の力を抜くのが苦手なんだから。知ってる? 肩の力を抜くにはね、膝の力を抜くのが良いんだって。あのイチローが言うんだからきっと間違いないと思うよ。体は繋がっているから、そういうちょっと遠いところから自分に優しくしてあげなきゃいけないの。ね、そうでしょ? だからいつまでもそんなところに突っ立ってないでさ、こっちにおいでよ。美味しい物でも食べに行こうか。山盛りのパンケーキでも食べに行こうよ。ね、たまにはさ?」    ようちゃんは私のアパートまで車で迎えにきてくれた。あまり可愛くない色の彼女の親の車で、助手席に座ったまま廃れた現実を跡にした。吉祥寺まで行って私とようちゃんは山盛りのパンケーキを食べた。甘い生クリームとこれでもかと乗ったイチゴが私の口とお腹の中をぐるぐると駆け回るようだった。ようちゃんは自分から誘ったくせに甘ったるさですぐに手を止めた。口に含んだパンケーキはしっとりしていて、気を抜けば嚙み切るどころかこちらが息を詰まらせてしまうような弾力を持っている。お腹いっぱい食べて、沢山眠って、そうやって朝を迎えたらまたあたしと遊びに行こう。ようちゃんはししっと笑ってそう言う。帰りはまたようちゃんが運転してくれて、それは私が免許を持っていないからでもこれが彼女の親の車だからでもなく、彼女の私に対する無償の好意によるものだと気がついて私は胸を詰まらせてしまいそうだった。  無気力に家に帰った私はいつの間にか眠って、そしていつの間にか目を覚ます。ようちゃんの言うほどにすっきりとした朝は迎えられていないけれど、コップに一杯の水を注いだ。まだ一日を始める力が漲らないのを私は私のせいにする。艶やかに揺れるガラスの縁にそっと触れる。今日もまた私は、もう似合いもしなくなったワンピースに身を包む。  自転車で大学に行くのは思ったよりも大変だった。普段は気にすることもなかった上り坂が、私の足を硬直させていく。たまには運動をした方が良いと言うのは体に良いということか精神的に良いと言うことか。前者であればこの足と肺の痛みを健康と呼ぶには些か疑問に思ったし、後者であれば余計なお世話だと言わざるを得なかった。ゆっくりと進む自転車に跨る、重い重い私の体。地鳴りのように心拍数を上げて、私は何かから逃げるように、必死にペダルを漕いでゆく。    大学の大講義室は既に何名かの学生が座っている。前に座る学生たちは参考書やルーズリーフを広げており、後ろの扉近くの男子学生たちはスマートフォンでゲームをしながらおしゃべりをする。どっちつかずの私は真ん中より少し後ろ寄りに座ったので、教授の言葉に混じって男子学生の声が聞こえてくる。     「レヴィストロースはその仮説で何が言いたかったかっていうと、私たちの感情は自然に生まれてくるものではなくって、社会構造が先にあるんだ、って事なんですよね。社会構造が先にあって、感情はそれに従った役割に過ぎないと彼は言っているんです」 「それであいつが今日試験範囲発表されるっていうからさ、わざわざ一限出てやったんだよ。出席取らねえのにわざわざ朝から出るとかほんとに勘弁しろって思うけどさ、でもやっぱ単位は落としてらんねえからよ。そしたらマジでどうなったと思う?」 「人間は自分を中心にものを考えるって訳だけど、それに対して、実は自分というものも、周りにある構造というものに縛られている、構造に規定されているって言っているんです」 「試験範囲なんか発表されなかったんだよ、マジふざけやがって次会ったらぶっ殺すわ」      鞄からお茶を取り出して、静かに一口飲んだ。飲み込んだ液体は私の胸につっかえた物を決してどこかに押し流してくれたりはしない。永遠にも思える九十分を一人うずくまって耐え忍ぶ。大丈夫、ではないかもしれない。    お昼休みにサンドウィッチを食べていたら、ようちゃんから連絡が来た。たまごがたっぷりと入ったサンドウィッチとハムチーズサンド。買いたいものがあるからちょっと付き合ってよ。また助手席に乗せてあげるからさ。いつの間にかたまごサンドは跡形もなくなっていて、もう一方にも被りつく。眠って起きればお腹が減るし、お腹が満たされれば眠ってしまう。どんな感情に縛られたって、私の体は傲慢だ。お腹いっぱいになればそれだけで少し幸福になった気がして、その少し後で息を止めたくなるほど空しくなる。今日は三限で終わりでしょ? じゃあその後で迎えに行くわ。 *    ようちゃんの運転は上手でもないし、下手でもなかった。右折するときに思い切りよくハンドルを切るところが彼女らしいなと思った。車は自転車よりも早い速度で私の体を私の知っている世界から切り離していく。フロントガラス越しに見る世界はいつもよりも色鮮やかに見えた。    アウトレットモールには服屋や靴屋や雑貨屋や、その他にも多くの人に愛されるようなお店が並ぶ。幾つかの店を梯子してようちゃんの服を一緒に選んだ。     「実は今度の週末に、久しぶりに土方先輩に会うんだ。覚えてる? そうそう、応援団長とかやっててすごく目立ってた男バスの土方先輩。あたしも女バスのキャプテンだったから関わりはあってさ、でもなんか久しぶりに連絡くれてね、最近何やってんのかとか、大学どこに行ったんだとか。そういうことを気に掛けて貰えるとさ、何だかほんの数年前のことなのに懐かしくなっちゃってさ、あたしも先輩のことさ、ほら、ちょっといいなって思ってたからさ、変に舞い上がっちゃったりして。そしたら今度ご飯でも行こうよなんて言ってくれてさ。ええまじかってびっくりしたんだけど、でもやっぱり嬉しくて。人から何かに誘ってもらえるのって、どうしてこうも自分が認められたような気持ちになるんだろうね」  ようちゃんは普段からボーイッシュなデニムやパーカーを着ているから、私はようちゃんに秋色のワンピースを勧めた。ようちゃんはそのワンピースを偉く気に入ってくれたようにそれを肩に当てながら鏡の前でくるくる回ってみせた。ようちゃんは笑うときゅっと目元が細くなって、唇の間から元気な歯が見える。私の横で笑うようちゃんの姿を見ているうちに、いつの間にか胸の奥につっかえていたものも綺麗さっぱり無くなったように感じた。やっぱりようちゃんは凄いなと思う。    買い物に付き合ってくれたお礼、という事で今度はようちゃんが私に欲しいものは無いか尋ねる。私は服も靴も雑貨も特に欲しいものは無かったので正直にそう言うと、ようちゃんはじゃあこんなのはどうよ? と私を小さな花屋さんに引っ張っていった。私には少し色鮮やかすぎる花の束に圧倒されて、私は頭の中でお気に入りだったワンピースの花柄を思い出す。明るくて可愛らしくて元気で、そういう花柄のワンピースを似合っているよと言ったあいつはもういないのに。    そうやって俯く私にようちゃんが手渡したのは、意外にも地味な色の小さな鉢に入った多肉植物だった。     「寒さに強くて乾燥にも強いから水やりも時々で大丈夫みたいだし、今は緑色だけれど冬になると綺麗な赤紫色になるんだってさ。センペルビウム・ライラックタイム。どうかなこれ、今日のお礼に、とか言って」      私はこくりと頷いた。ようちゃんはまたししっと笑った。   *    ベッドに潜り込んで、息を止めるように眠ろうとする。誰の音もならないこの部屋。月灯かりからも星空からも隔てられた夜。いつだって涙は出ない。本当に泣いてしまいたいときにはいつだって、乾いた心が私の中のあらゆる力を奪っていく。眠る力もなく、起き上がる気力も奪われて、私は乾燥した唇の皮を噛んだ。スマートフォンを開いて、返事が返ってくることもないLINEを開く。『分かった、今までありがとう』一言だけの言葉がいつまでも私を長い夜に縛り付けては、別れた男女という社会構造が行き場のない悲しみを私に押し付けている。力を振り絞って布団から抜け出して、コップ一杯の水を注いだ。ひんやりと冷たさがガラス越しに私の手に触れる。私は一口だけ水を口に含むと、残りは全て小さな鉢に入った多肉植物にあげた。乾燥した土はじんわりと水を吸い込むと、濃い茶色の土が優しく香りを上げる。私の喉を通った水も、いつか遠い未来で何かを芽吹かせて欲しいと思う。でもそれは傲慢かもしれない。我儘かもしれない。弱さなのかもしれない。    もはやパスケースを持ち運ぶことすらなくなって、今日も自転車で学校へ向かう。線路沿いの通学路で、電車は私を追い抜いていく。こんなにも早くどこかへ向かうことが出来る。そんな当たり前のことにすら今まで気が付かなかった。私はいつの間にか、息を切らせながら自転車を漕いでゆく。  講義の内容は相変わらずで、サンドウィッチも相変わらずの味だった。ゲームをする学生は単位のために講義に参加して、教授の語る構造主義は緊張感を増してゆく。私はもうどんな服を着れば良いかも分からなくなって、息絶えるように秋が終わる。 「それで土方先輩と久しぶりに会ったんだけど、やっぱなんかすごくお洒落になっててさ。元からほら、背も高かったし顔もね、結構かっこよかったけど、でもなんか更に垢抜けたと言いますか、大人っぽくなったと言いますか、そういうかっこよさを持っていたのよ。先輩も車を持ってて、それは素敵な車だったんだ。ヘッドライトがきらきら光ってさ。先輩が運転してくれて助手席にあたしが座ったんだ。シートもすごいフカフカで、香水か芳香剤か分からないけどすごく良い香りがしてね。先輩は運転が上手で、あたしは柄にもなく緊張しちゃったんだけど、そしたら先輩がお笑い芸人のラジオを流し始めてさ、馬鹿らしいくらい面白くれあたしも先輩もめっちゃ笑っちゃってさ。だからなんか、それまでのびしっとした雰囲気は全部そのお笑い芸人に持ってかれちゃったんだけどさ、でもそういう先輩の優しいところが、ああ好きだな、って思ったよ。   でも別に、あたしも恋に盲目って訳じゃないし? せめて舞い上がっている自分に対して、変なテンションになってるよ、みたいなツッコミはちゃんと入れておくことにしているんだ。だって感情は先走っちゃうけどさ、それで周りの大切なものが見えなくなるのはなんか、ちょっと寂しいと思っちゃうんだ。だからまた一緒にご飯食べに行かない? 火鍋が美味しい中華料理屋があって、一回行ってみたいなって思ってたんだ。でもそういうお店には土方先輩とじゃなくて、あたしはあんたと行きたいよ。なんでだろうね? あたしはあんたと一緒にご飯を食べてるのが好きなのかもしれない。あんたを助手席に乗せて、あたしが運転席に座って、そういう方がしっくりくる気がしてるんだよね。なんてそんなこと、先輩の前では言わないけどさ」  相変わらず電車に乗れない私はまだ、相変わらず返事の来ないLINEの画面を開いている。『分かった、今までありがとう』言葉を並べるのはこんなにも簡単なのに、ぽっかりと空いた穴はいつまでも塞がることはない。つまらない講義の内容も、たまごサンドウィッチも、多肉植物の緑も、その穴を塞いでくれたりはしなかった。こちらから連絡すれば彼はまだ何か私との繋がりを感じてくれるだろうか。淡い期待はそのまま屑箱に捨てる。別れた男女の社会構造は何千年も前から変わらないだろうに、どうして人は少しも強くなれないのだろう。私は今日も小さな鉢に水をあげた。季節はいつの間にか冬を待つばかりだった。 *   「や、ちょっとだけ久々。ごめんごめん、ちょっと一緒に飲んでくれやしませんかい?」  ようちゃんが私のアパートを訪れたのはクリスマスも終わった冬の日で、もうほとんど気力の無い一日を終わらせようとしていた時だった。ようちゃんはいつものボーイッシュな恰好ではなくて、ワンピースとちょっと大人っぽい、でもとても可愛いメイクをしていた。ようちゃんは土方先輩と会っていたのかもしれないと、そのまま彼女に尋ねたら本当にそうだった。だけど、そしたらなぜここに? そう言ったらようちゃんは笑った。いつものように元気な表情、とはかけ離れた顔で。 「結論から言いますと、先輩とは付き合えなかったんですよね。それはあたしが彼に見合う人間ではなかったと言うか、敵わぬ恋ということでもありますけれど、でもあたしは本当に先輩のことが好きだったんだ。とても好きで、先輩の優しさに触れてしまいたいと思うくらいには、あたしは先輩のことを素敵に思っていたんだよ。先輩の声を聞くと胸の奥がとてもあったかくなって、先輩が笑うとあたしの頬は上手く力が入らなくなって。優しくしてくれて、手を繋いで、キスをして。そうやって心と体の距離を少しずつ近づけていって、だからあたしはこの人といつまでも一緒にいたいなって思って、この人と一緒にいられる限りこの人のことを心から大切に想いたいと思って、その気持ちは本当に嘘ではなかったんだよ。だから今日、初めて先輩とセックスをしようと思ったんだけど、駄目だったんだ」  私はようちゃんに、無理に話さなくていいよと言った。それは私の本心で、言葉を紡ぐことで彼女が自分を傷つけないで欲しいと思った。ようちゃんは瞳を潤ませながら、それでも決して泣き出してしまうような事はなかった。それはとても痛々しくて、変われるものなら私が変わってあげたいと思った。 「先輩、ずっと優しいんだよ。あたしが断った後もずっと優しいんだよ。しなくても良いし、傍にいるのが幸せだなんて歯の浮くようなことを言ってさ、あたしのことが好きだって言ってくれて、こんなに幸せで嬉しいことは今までの人生で一番かもしれないってくらい、あたしは本当に嬉しかったんだけどさ、どうしてあたしには普通の女の子みたいな幸せが、こんなに苦しいんだろうね」  ようちゃんはやがて眠ってしまったので、私は彼女をベッドに寝かせてあげた。ようちゃんは横になって私に背を向けると、やがて私に気づかれない様に涙を頬に伝わせ始めた。ようちゃんはとても優しくて、とても可愛らしくて、そしてとても繊細な女の子だと私は思う。でもそれは私と彼女の関係が彼女をそう定義付けているだけで、本当の彼女を私は理解できていないのかもしれない。人の心を汲み取る事が出来ないのに、人の苦しみは自分の苦しみのように感じてしまうのはどうしてだろう。私のスマートフォンには決して返事は返って来ない。結ばれなかった恋と途切れた愛は、寄る辺の無い夜にさまよい続ける。    その夜、久しぶりにあいつの夢を見た。あいつは自分勝手な奴で、自分の夢に正直な奴で、自分のやることや選んだことにいつも自信を持とうとして、自分のことは自分で決めようとしていて、自分の気持ちに嘘を吐きたくないと思っている、そういう男だった。夢の中であいつと私はどこか知らない海沿いの街を二人で手を繋ぎながら歩いていて、私の左手にはバニラと抹茶が半々になったソフトクリームが握られていて、まだ綺麗な形のそれからあいつの右手に握られたスプーンが一口分を掬うと私の方に差し出して、私はいつも一口目をくれるあいつのことが好きだったことを思い出した。ソフトクリームは甘くて苦くて冷たくて、あいつの手はまだ夢心地のように温かくて。あいつと過ごした時間は私の中で確かに心の奥で思い出になっていて、そしてきっと夜明けとともにこの夢は覚めて、私はどこか遠いところへ向かわなければならないんだと、漠然とそう思った。 * 「あ、すごいじゃん」      カーテンを開けたら朝日がぶっきらぼうに差し込んで、ようちゃんと私は人生で最も新しい朝を迎える。ようちゃんはすっきりした顔で私の方を向きながら、小さな鉢に入ったセンペルビウムを持ち上げて笑う。 「綺麗な赤紫色になったねえ」      みっちゃんがお世話してたおかげだね、とようちゃんは笑う。私も笑って、そして泣いた。  ようちゃんは電車で帰るというので駅まで一緒に歩いた。ようちゃんは昨日着ていたワンピースを着て、私はデニムにパーカー。なんだかいつもの二人の服を取り替えっこしたみたいだ。吹き抜ける風は冷たさよりも爽やかさが勝っている。やがて駅に着いたところでようちゃんはパスケースを取り出した。 「そういえば、まだ乗れないの?」 「どうだろう、最近は乗ろうともしてなかった」 「試してみる?」  いつもならようちゃんはそんなことを言わないだろうし、私も頷いたりしないだろうと思う。だけど今日はなぜだろう。不器用な自分も、笑い飛ばせるような気がした。  京王八王子行きの切符を入れて改札を抜ける。必ずどこかへ辿り着くのに、それを自分で決めるのは恐ろしく怖いことだ。ようちゃんの一段後ろにくっついてエスカレーターに乗る。ゆっくりと上昇していくエスカレーターは、彼女のおかげか、今日はただの機械でしかない。  ほんの短い間、目を閉じてみる。駅の持つ独特な音の響きは、ようちゃんの口ずさむよく分からない鼻歌にかき消されてゆく。  まもなく、一番線に、各駅停車、京王八王子行きが参ります。  駅のホームにこだまするアナウンス。いつでも変わらないその声が耳に残っても、大丈夫。私はデニムの端を強く握った。ゆっくりと駅のホームは震動し、電車がその姿を現した。 「泊めてくれてありがとうね」 「私こそ、いつもありがとう」      なんか照れるなあ、とようちゃんは笑う。地鳴りのような音は段々と大きくなって、電車はまもなくホームに到達する。     「こちらこそだよ」      ようちゃんはししっと笑ってそう言った。ホームに滑り込んでくる各駅停車はゆったりとした足取りで私たちの前に停車した。銀色の車体に映えた朝日がキラキラと眩しく輝いた。ようちゃんのワンピースは風に揺れて色めきを放っていて、私のデニムは少しだけ私に歩き出す力を与えてくれている。扉が閉まるのとほとんど同時に、私の重い体は一瞬だけ、けれども確かに、黄色い線を飛び越えた。
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