平穏無事

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平穏無事

「魔王を呼べ!」 「何としても魔王を呼び出すのだ!!」 扉の隙間から覗き込む室内は物々しい雰囲気で、魔王という響きだけが怒号のように聞こえてくる。 外の廊下側から扉の影になっている場所に隠れたリリーは、息を潜めて室内の様子を覗いていた。 装飾が少ないながらに、真っ白で質の良いドレスが汚れるのも気にせず、小さくしゃがみ込みながら。 そんなリリーの様子を、真後ろから見下ろしているディエゴを振り返り「……あれ、何ですか?」と問い掛ける。 潜められた声はキチンとディエゴの耳まで届いたが、返答まで時間を要した。 緩慢な瞬きをしたディエゴは、リリーから扉の隙間へ視線を移す。 城の地下にあるその部屋は普段は使われていないのだろう。 湿り気を帯びたカビと埃の匂いが辺りに漂っている。 室内で使われている明かりも、床に置かれた幾つかの蝋燭だった。 調度品が一つも置かれていないため殺風景で、壁も床も石が剥き出しだ。 黒いローブを纏った人影が、蝋燭の炎のようにゆらゆらと揺れながら床に何かを書き付けている。 蝋燭の明かりでは部屋の隅まで照らせておらず、奥行きの分からないところから人影が出たり消えたりを繰り返す。 ディエゴはもう一つ瞬きをすると「見ての通りだ」と答えた。 「見ての通り、魔王を呼び出す儀式だ」 「魔王を呼び出す儀式」 「ああ」 膝を抱え込むようにしゃがみ込んでいるリリーは、ポカンと唇を開いて反芻した。 言葉の意味を咀嚼するように首を左右に傾げ「いや」と呟く。 「いやいや」首を横に振る。 「いやいやいやいや! おかしいですよ、それ。何でわざわざ魔王なんて……。もう何年も魔王どころか、魔物一匹見ないのに」 勢い良く立ち上がったリリーの手から傾いた手燭を受け止め、ディエゴはリリーの顔を見つめた。 扉の隙間から漏れる明かりしかない薄暗い中で、リリーの白い肌が浮かび上がって見える。 「いえ。仮にそういうことをする人達がいたとしても、あの人達はお城の人ですよね。国を守ったり、滞りなく運営していく人達ですよね。おかしくないですか? おかしいですよね?!」 薄らと青みの差した肌色を眺めていたディエゴは、空いている手でリリーの口を塞ぐ。 身を乗り出していたリリーは声のボリュームも大きくなり始めていた。 「声が大きい」リリーの体を引き寄せながら囁き扉の隙間から室内を注視したが、誰一人二人に気付くものはいない。 「物事の規模が大きくなればなるほど、おかしくなるものだ。世の中というものは、そういう風に出来ている」 リリーの体を抱え込むように歩き出し、ディエゴは「諦めろ」と言い捨てる。 口を塞がれたままだったリリーは、目玉を溢れ落とさんばかりに見開き、形の良い眉を歪めた。 もご、ムゴ、とディエゴの手の平の奥で呻き声を漏らす。 ディエゴはその声を聞こうとはせず、リリーの口を塞いだまま地下へ降りるために使った階段まで戻り、地上へ向かった。 地下へ降りるための階段は城の奥に位置されており人気が少ない。 形も大きさもバラバラの石が剥き出しになった地下通路に対し、城の中の床は白い大理石で統一されている。 暗い場所から拓けた明るい場所に出たリリーは、大きな目を眇めてショボショボと瞬きをした。 やっとリリーの口から手を離したディエゴだったが、リリーの背中を押して更に場所を移動する。 背中を押しやられてリリーが辿り着いたのは中庭だった。 色とりどりの季節の花が咲き乱れ中庭は鮮やかだ。 中庭のあちこちに点在するベンチの一つにリリーを座らせ、ディエゴもその隣へ腰を下ろす。 リリーは横目でディエゴを見た。 この国では珍しい黒髪と黒目だが、リリーにとっては懐かしい色合いだった。 通った鼻筋の目立つ横顔を見ていると、ディエゴも視線をリリーへ向け「お前は何者だ」と問う。 リリーの薄い肩がピクリと跳ねた。 「……リリーです」 「そうじゃない。……職業は」 「職?えっと、街にいた頃はパン屋でパン作ってましたけど」 ディエゴが何を聞いているのか分からず、リリーは首を傾げながらパンの生地を捏ねる真似をした。 しかしディエゴは僅かに眉を寄せて「聖女だろう」と言う。 リリーは存在しないパン生地を捏ねていた手を止める。 「え。聖女って職業なんですか? そんな、俗物的な感じで良いんですか?!」 「うるさい。聖女が職業なのか肩書きなのかは俺も知らない。ただ、お前の持つ癒しの力は世界で唯一聖女だけが使うことの出来る力だ。だからお前は、正真正銘の聖女なんだ」 はわー、と何とも形容し難い息を漏らし、リリーは天を仰ぐ。 リリーが聖女として城へ召し上げられた日も、今日のように雲一つない晴天だった。 この国で聖女伝説は寝物語としても親しまれている。 影のあるところから突如として現れる魔物達は、魔王の命令の元、人を脅かし世界を滅ぼさんとしていた。 そこに人々の救いとして現れたのが聖女で、荒れた土地に祈りを捧げて清め、傷付いた人々を癒すことの出来る特別な力を持っていた。 特別な力ではあるが、決して万能ではない。 聖女の傍には常に護衛騎士が付き、魔王を打ち倒さんとする仲間達が集まった。 彼らは聖女と共に国中を旅して回り、見事に魔王を打ち倒したとされている。 その聖女が亡くなって既に数百年が経っていた。 同時に、魔物一匹見ない平和な日々が続いている。 リリーも平和な世の中で、街にあるパン屋で働いていた。 パン生地を捏ねる時間こそがリリーにとって平和の証だったのだ。 毎日香ばしい小麦の香りを纏い、リリーはパンを作っていた。 同じパン屋で働く老婆が腰を痛めたのが転機だったのだろう。 パン作りは思いの外重労働で、厨房で腰の痛みを訴えた老婆が蹲ったところにリリーは居合わせた。 大丈夫ですか、と声を掛けて腰をさすってやると、呻き声を上げていた老婆が、おや、と顔を上げた。 リリーと目が合うとスクと立ち上がり、その場で屈伸をして真上にトントンと飛んで見せたのだ。 その後は坂道を転がるような危ういスピードで物事が進んでいった。 痛めた腰だけではなく年齢から来る膝の痛みもなくなったと喜んだ老婆の声は、簡単に街中に広がり、それは城にまで届いてしまった。 城から派遣された数人がリリーを迎えに来たかと思うと、城では無遠慮の視線に晒され身体中をまさぐられ、老婆の腰を治した時の状況からリリーの好きな食べ物まで詰問された。 質問ではなく詰問だ。 少なくともリリーにとっては。 目まぐるしく過ぎ去った自分の転機を思い返したリリーは、それでも首を横に振った。 「いえ。それは分かってますよ」と。 聖女が職業か肩書きかなのかという疑問は重要ではない。 そしてどれだけリリーが否定し嫌がったとしても、リリーは聖女だ。 「でも、私が聖女であることと、国側の人達が魔王を呼び出そうとしていることと、何の関係があるんですか」 「関係大ありだ。聖女という存在そのものに価値がある。国として利用しない手はないだろう」 リリーはドレスに皺が寄るのも気にせずにキュッと拳を作った。 「平和なのに?」 咎めるような声色だったが、ディエゴは表情を変えずに「平和な世の中に聖女だけがいたって、宝の持ち腐れだろう」と言う。 変わらない表情と取り繕うところのない物言いは、付き合う中で難点とも言える部分だろうが、リリーにとっては心地好いものだった。 しかし、これには頭を抱えてしまう。 「無辜の民が何人死のうが、大きなことを成し遂げる方が重視されるのが常だ。だからこそ、聖女伝説がある。未だに残っている。国の資料でも、死んだ人間よりも救われた人間の記述の方が多かったはずだ。死んだ人間の数も救われた人間の数も、似たようなものだったのに」 「それは……確かに」 「今回は聖女が先だっただけだ。過去は本当に魔王が先だったかも知れない。転ぶ先は同じだが、始まりにほんの少しの差があるだけで随分と印象が変わる」 今日の天気の話でもするようなディエゴの様子に対し、リリーは俯いて肺から全ての息を吐いていた。 「確かに……」と繰り返しながら。 別段、城に連れて来られたからといって、リリーの人間性は変わりなかった。 衣食住のグレードアップが大きくとも、自分の作ったパンが世界で一番美味しいと思っていたし、白いドレスは汚れが目立って気になる。 自分の立場に胡座をかくことなく、日々詰め込まれる聖女伝説に纏わる勉強も、大して信じていない神への礼拝も欠かすことがなかった。 そうして聖女という椅子にふんぞり返っていなかった自分に心底安堵し、次には自分を祭り上げた者達への憤りを覚える。 爪先の尖った靴でトツトツと地面を叩くリリーに、ディエゴは「問題ないだろう」と告げた。 顔を上げるリリーは、ディエゴが自分の方に顔を向けていることに驚く。 「問題ないって、何がですか」 「あの儀式は意味を成さない、と言っているんだ」 「そうなんですか?」 魔物と契約するための儀式なども教わったが、正直なところよく分かっていない。 文字と文様を書き連ねて、もにょもにょとした呪文を唱えて、それが成功すると魔物を呼び出せることは分かる。 しかしそのために必要な文字も文様も呪文も覚えていない。 パチパチと瞬きするリリーと視線を合わせたまま、ディエゴは「ああ」と浅く顎を引いた。 昼間の陽の光を受けてもディエゴの黒髪は輝かない。 黒い瞳も鏡のようにリリーを映し返すばかりだ。 「どうして分かるんですか」リリーは問いを重ねた。 ディエゴは一つ瞬きをする。 キョトリとしたリリーの顔を映す瞳は、水滴を一つ落とされたような水面のように揺れ、ほの赤く光った。 それはほんの一瞬の出来事で、見間違えかと思う。 「どうしてだと思う」 護衛騎士としては褒められる言動ではないディエゴだが、いつだってリリーの問い掛けを躱すことはなかった。 分からないことは分からない、というが、既にある答えを隠すようなことはなかった。 リリーは前のめりにディエゴの顔を覗き込む。 混じりっけのない黒目が赤く見えることなどない。 無意識に眉の寄ったリリーへ、ディエゴはやはり答えることなく「俺からも一つ聞きたい」と新たな質問を提示する。 リリーへ向けられた質問だ。 「何故、アイツらが国側の人間だと分かった」 リリーは徐々に前へ傾いていた上半身を仰け反り、数秒の間を置いて「ええ?」と大袈裟に声を上げる。 上擦った声は掠れ気味だ。 「顔は見えなかっただろう。全員が同じ黒いローブだったはずだ。ましてあの暗さだ。個の判別は簡単じゃない」 簡単じゃない、とは言うが、リリーには出来ないと暗に言っているのだろう。 これは否定出来ない話で、リリーはつい頷いてしまった。 しかし直ぐに小首を傾げる。 薄い肩を態とらしくヒョイと上げて「どうしてだと思います」とディエゴを真似た。 顔付きも声も仕草も似ていないが、本人は満足そうに口の端に笑みを乗せている。 「私、平和が良いです。平穏で平和で、穏やかに暮らして、健やかに死んでいきたい」 「健やかに死ぬ」 「はい。恐怖や不安は要りません」 キッパリと言い切る様はいっそ清々しさすら感じられる。 流されるまま城に留まり続けているようなリリーが、ただ一つだけ持っている信念のような匂いを感じ取り、ディエゴは「成程」と珍しく感心した呟きを漏らす。 「……そうか。俺も、安定した職が好ましい」 まるでウィン・ウィンの関係とディエゴは頷く。 リリーから視線を逸らし、もうそれ以上は言わなかった。 リリーも黙って中庭に咲き乱れる花々を眺めた。 甘い香りの風が青々とした木々を揺らし、穏やかやさざめきを引き連れていく。 どれだけ経った頃か、穏やかな空間に不釣り合いな忙しい足音が聞こえてくる。 ディエゴは既に音の方向を見ていた。 遅れて振り向いたリリーを足音の主が呼ぶ。 「聖女様! 聖女様ー!!」 それは聞き覚えのある声だった。 城の地下にある一室で、魔王を呼ぶ声だ。 それが聖女であるリリーを呼んでいる。 「あは」 リリーが何ともなし笑うと、ディエゴも細い息を漏らす。 二人は揃ってベンチから立ち上がり、駆け寄ってくる相手の顔を見た。
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