闇の剣士 剣弥兵衛 魔王殲滅(七)

2/12
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
 婚儀は無事に終わり、大黒屋の隣家を買い取っていた主人の思わくから、ここに新居を構えた。新居には手伝いのおばさんが通いで来ており、早朝から台所では智里と賑やかな会話が弾んでいる。名は春と言い、太秦辺りの百姓の娘で左官をしていた次作と所帯を持ったが、二年前に亭主を病で亡くしていた。大黒屋の長屋に住んでおり、大黒屋の下仕事をして七歳になる娘を育てている。弥兵衛とも顔なじみで、炊き出しでは食材の段取りなどをこなして役立っていた。 「旦那様、お早うございます」  昨夜、遅くまで飲まされ続けていた弥兵衛は、昼前になってやっと起き出していた。 「えー、私のことですか」 「そりゃ、そうどすがな。智里はんと一緒にならはったなら、今日からは大黒屋の若旦那どすがな」 「そうゆうことになりますか。しかし、今まで通り弥兵衛ではあきませんか」 「何をゆわはります。旦那様やないと、世間が許さしまへんさかい」  春の横で包丁を持ち、漬物を捌いていた智里が小声で含み笑いしていた。朝昼兼用の昼食を、甲斐甲斐しく給仕する智里と食べ終えると、早速大黒屋へ顔を出した。主人からは手代の与助を紹介され、これから家業のことについては、与助に習って欲しいとの言い分であった。この店で番頭に次ぐ立場の与助は、何人かの手代の中で頭になっている。炊き出しの際にも、智里の意を受けて段取りを差配しており、年は三年ほど上になるが弥兵衛とも気が合っていた。丹波山家藩の黒谷で紙漉職人の次男として育ち、ここの紙を京で更に広めることもあって大黒屋へ奉公に上がっている。既に十五年を勤める叩き上げの手代で、仕事は真面目にこなし、温厚な性格は誰からも信頼を得ていた。やがては番頭へ上がるのに十分な知識と商才を持っている。弥兵衛は、与助に向かって軽く頭を下げると、早速、店の内を案内されていた。座敷の横にある三和土(たたき)の通路を通り、奥へと進むと庭に面して三棟の蔵があった。その右手の蔵から順に厳めしい扉が開けられると、掃除が行き届いた床板の上に設けられた棚には、数々の紙が置かれている。 「ほう、これは見事な品々だ」  弥兵衛は、外からの光を受け鮮やかな色彩を帯びた紙を見て感嘆していた。 「この蔵は、最上級の紙を置いとりまして、屏風、衝立、襖などの建具に使われとる紙や上等な扇子に団扇、それに呉服用には呉服札、たとう紙がおます」  一つ目の蔵の扉が閉められ、次の蔵の扉が開けられている。 「ここは図書や習字、懐紙などに使われる紙どして、多く捌けるもんを置いとります」 「なるほど、紙の使い道で分けておるとゆうことですな」 「それで最後の蔵になりますが、ここには銭が入っておまして、この蔵を開けれるのは旦那はんと番頭はん、それにわての三人だけどす。それも、鍵は旦那はんだけが持っとられ、先ほど借りておます」  与助が、この蔵の二重になった扉の鍵を開けた。そこは両側に棚を設け、棚段毎に番号が記され、小判や丁銀は年代別に仕分けされた箱に収容され、銭は百文毎に銭さしで括られ山積みされている。この番号を使って小判、銀貨、銭の出納がなされ、大福帳に記載すると言う。 「これは、大した商いですが、今ここにはいかほどの蓄えがありますか」  弥兵衛は、見たことも無い金銭の量に驚いている。 「あの西陣の炊き出しから、得意先のご贔屓も増えまして、一万両に近づいとります」 「ほー、それほどに」 「それに、店の方では、日々の運用として千両ほどを置いとります。それの一部が、お店に従事する者三十人とその家族の暮らしを支えとるんどす」 「良く判りました」  この後は店に行き帳場にいる番頭の挨拶を受け、店脇の客間で紙の商いについて与助の説明を聞いている。それは、紙のこしらえ方に始まり、産地、紙の仕入れと運送、紙の質に価値、売り先など、事細かに与助が話していた。これらの話に弥兵衛の飲み込みは早く、問い返す事柄に与助が驚きを隠せないでいる。 「弥兵衛さん、いや若旦那はん。一遍の話で、これほどまで飲み込みがお早いのは、まるで弘法はんのようどすな」 「それは与助さんのお話が、上手ですから」  弘法大師は若い頃、あらゆる経典を瞬時に理解して記憶する能力が得られる虚空蔵求聞持法と言う修行を、阿波の太龍寺や室戸岬の御厨人窟(みくろど)で行っていた。これは虚空蔵菩薩の真言を日に一万回、百日に亘って唱える修行法で、御厨人窟の修行では明けの明星が口の中に飛び込んで来たと言う体験をされている。そこから見る外の景色が、空と海ばかりで、ここから空海と名乗られたと言われる。  弥兵衛に商才の天性があったのか、それとも秘められた闇の剣士として威風が人徳に繋がっているのか、その後も大黒屋の商いは順調に捗っていた。そこで翌年の享保十七年初夏には、商いを見守っていた主人が弥兵衛に託し隠居している。智里との夫婦仲は睦まじく、日々の仕事にも張りを覚え、励んでいる弥兵衛に夏の盛りが過ぎようとする頃、不穏な知らせが届いた。九州の筑前から京の絵画を修めるために上洛して来た絵師で、用紙を求めるために店に立ち寄った時の話の一つである。それは、この夏の天候不順の所為なのか、西国の各地からの不作の便りであった。後に享保の大飢饉と呼ばれ、徳川実記では百万人近くの餓死者を出した厄災が始まろうとしていた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!