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弥兵衛は、その日の夜、久方ぶりに不動寺の石不動と向かい合っていた。夏の盛りが過ぎたとは言え、風の吹かない京の蒸し暑さが堂の中に籠もっている。額からの汗が滴り落ちるのを無視するかの様に、不動明王の真言を唱える。灯した線香が燃え尽き、二本目、三本目と続け、それが五本目になった時、石不動の後背に不動の姿が現れた。
「弥兵衛、商いの術も中々大したものよのう」
「それはご指南頂きました仁義を実践しているまでで、大いに商いに役だっております。それよりも、巷の出来事で西国の国々が不作との話を聞いておりますが」
「そうか。それは耳が早い」
「これも、商いのお陰です」
不動が、一呼吸を置いている。そこで、意外なことを話し始めた。
「この二、三日の間に、そなたにも告げなければと考えていたが、今年の米の作柄は恐らく最悪なことになるはずだ」
「それほどに不作にございますか」
「そうよな。不作などを超して凶作、それも大凶作とでも言おうか、飢饉に見舞われることになるかも知れん」
「なんと。飢饉とは、この夏の天候不順によるものですか」
「それもあるかも知れんが、大本は浮塵子だ」
「えー、浮塵子と言われますか」
「そうじゃ。それも大陸から風に乗り、海を渡って来ておる。しかも、それを誘っておる輩がおる」
「まさか、魔魁となっている厳学と名乗る僧ですか」
「そのようだ様々な悪霊を引き連れ、西国の各地に浮塵子を蔓延らしておる。おまけに、それを阻止しようとした、その地の闇の剣士の多くが倒されておる」
「私らの同輩が倒されるとは、如何なることですか」
苦渋な顔になって話す不動を見て、弥兵衛は勢い込んで問うている。堂内の空気が乱れたのか、先程まで真っ直ぐ立ち上がっていた線香の煙が、大きく揺らいだ。
「闇の剣士と言え生い立ちに違いがあり、没義道を正す意気と身につけた技の力量にも程度の違いがあるのは事実だ。それに、この一党の頭数が多く、一人一人で当たっても多勢に無勢になっておる」
「その一党の人数とは、どれほどになっておるのですか」
「複数の団に分かれて動いておるようだが、一団は二、三十人のようだ」
「それ程に集まっておるのですか」
「浮塵子を誘うには、それぐらいの人手が要るとゆうことだ。それに一党の証は黒染めの法衣を着ておる」
「そんな黒染め法衣を着た一団が向かう先は、何処になりますか」
「肝心なのはそこだが、丹波から東へ。やがては江戸にまで迫り、今の治政の転覆か、それとも傀儡を狙うはずだ」
「いよいよ魔魁の本性を現すことになりますか」
ここで不動が沈思している。飢饉ともなれば多くの餓死者が出ることを過去の経験として聞いている。こんな謀略を使って治政を乱そうとする魔魁に、弥兵衛は許すことが出来ない怒りを抑え、不動の次の言葉を待っていた。
「摂津におる清玄には話したが、近いうちにこの一団を追って数人の闇の剣士がやって来るはずだ。詳しいことは、その者達が上洛してから聞くがよい」
「判りました」
「西国の地では、既に万を超す人々が悲惨にも餓死しておる。これ以上に広がることを、是非とも避けねばならぬ。それに、いよいよ魔王も動き出すやも知れん」
「魔王ですか」
「そうだ。魔王が目指すのは魑魅魍魎が跋扈する世で、人はこれらに憑かれて互いに疑心暗鬼を生じ、益々魔王の独善が強まることになる」
ここまで話すと不動の姿が揺らぎ、間もなく見えなくなっていた。
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