1 伝統に忠実な少尉候補生

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1 伝統に忠実な少尉候補生

 バスが苦しげに勾配の急な山岳道路を登っている。  車内は外の殺人的な暑さとは無縁で、空調がすみずみまでいき渡っていた。おかげさまで満員御礼、日本全国津々浦々から集まってきた中高年の人びとがこれから目にするであろう極彩色の景色について、期待を込めて興奮気味に話し合っている。バスは一路、北アルプスの玄関口である新穂高(しんほたか)温泉へ向かって走行中。  そのなかに一人、窓際に座って流れていく景色を見るともなしに見ている若者がいた。窓の桟に肘を立て、車内の喧騒がいらだたしいのだろう、眉根のしわは寄りっぱなし、口はへの字に曲げられている。高齢者の大部隊から大爆笑が起こるたび、彼はひときわ不機嫌そうに渋面を作るのだった。  終点である新穂高ビジターセンターにバスが到着すると、元気いっぱいの乗客たちがわれ先にと降車し始めた。夏真っ盛りの平日なのにもかかわらず、この人出である。北アルプスの神通力は戦時中にもかかわらず、往時の水準を保っているらしい。バス内ただ一人の若者である槇村啓一郎(まきむらけいいちろう)はバカ騒ぎには加わらず、あえて最後の一人として降車した。  まだ朝も早い時間帯だったのだが、早くも夏のぎらつく太陽と熱気があたり一帯をローストし始めている。新穂高温泉は標高1,000メートル前後であるが、下界との顕著な温度差はまだ感じられない。高峰の夏山登山が涼しいというのは門外漢の幻想である。  ザックをバスの格納スペースから引っ張り出し、ビジターセンターで登山届を提出する。ミミズの這いずったような代物だった。登山届を出したところで遭難事故を回避できるわけではないという当たり前の事実が、彼を億劫がらせていた。  コースは軍の鬼教官から勧められた通り、一日めで新穂高→槍ヶ岳の肩まで詰め上げ、二日めを槍の穂先→南岳までの縦走路→槍平経由の下山とした。彼の所属する各務原(かかみがはら)基地では当該コースを歩いているおり、人生の分水嶺となる天啓を得た先人たちが続出したのだという。そうであってほしいものだ。  装備を整え、歩き出そうとしたところで高齢者の集団に声をかけられた。平均年齢は65歳前後、ドロップアウト後の第二の人生をエンジョイしている極楽トンボども。話しかけてきたのはそのうちのリーダーらしき男性だった。中肉中背、小麦色のサファリハットと30リットル程度の小型ザック。典型的な小屋泊装備である。 「おはよう、兄ちゃんはどこまでいくのかね」 「おはようございます。槍までいくつもりですが」 「まさか今日一日でいくつもりじゃあるまいね」  槇村は当然といった様子でうなずいた。「休暇が短いもので」 「たまげたな、若いってすばらしい」メンバーのほうを振り返り、大げさに肩をすくめてみせた。「みんな、そうじゃないかね?」  ほうぼうから賛同のつぶやきが上がった。新穂高から槍ヶ岳までは直線距離で14キロメートル、標高差は1,900メートルはある。ワンデイでこなすにはよほどの体力自慢でなければ厳しいだろう。 「ところで兄ちゃん、ずいぶん若いようだけど、いくつだね」わざとらしく視線を外す。「あー、差し支えなければだが」 「21歳です」 「ほう、21歳か。なるほど」老人は上から下までじっくりと青年の身体を眺めまわした。「槍に一日でいこうってくらい豪気な兄ちゃんのことだ、心身ともに頑健なんだろうね」  この手の遠回しな批判にほとほとうんざりしていた青年は、やや強い口調で言い返した。「おっしゃりたいことがあるならはっきり言ったらどうです」  さっきまでの和気藹々とした雰囲気は雲散霧消し、場の温度は突如として絶対零度付近にまで下がったように思えた。リーダー格の男は大げさにかぶりを振ってこめかみをもみ、しきりに片足から片足へ体重を移し替えている。「そう怒るなって。ただやっぱりさ、その、気になるだろ。若いモンがこんなとこでぶらぶらしてるのを見るとつい――」 「自分が国家に対する義務を果たしてないとお思いならご心配なく。2日前の03:00(まるさんまるまる)より軍から休暇をもらってる次第であります」直立姿勢をとり、教練で叩き込まれた完璧な角度で敬礼する。「東海方面軍各務原基地所属、槇村啓一郎少尉候補生であります」  老人たちの集団から感嘆の声が上がり、拍手までおまけでついてきた。リーダーと青年は互いに確執のないことを証明するべく重厚な握手を交わし、これにて一件は落着した。青年のほうには依然として彼らに対するわだかまりがあったにせよ、おくびにも出さなかった。  双六岳方面に向かう彼らに別れを告げ、槇村少尉候補生は一路、長い林道歩きにとりかかった。地図によれば白出沢出合までは林道が通されており、緩やかに標高を稼ぐらしい。ウォーミングアップにはちょうどよいだろう。  彼はぎっしりと装備の詰まった全備重量23キログラムのザックを背負い、早朝のすがすがしい空気のなか、歩き始めた。  本格的な登山道に変わる白出沢出合までは、2時間を超す長い林道歩きとなる。おのずから思考はふらふらと四方八方へと拡散していき、彼は今後の身の振りかたに集中できないでいた。 〈危急存亡の(とき)〉というキャッチフレーズのもと、鳴り物入りで整備された国家総動員法により、槇村は大学2年生の秋に徴兵されて甲種合格、少尉候補生として8か月の速成訓練を終えた。  いま彼は岐路に立たされている。表向き誰からも入隊を強制されてはいない。すべてをなげうって除隊し、予備役編入でも罰せられる心配はないし、就職に際して不利な扱いを受けることもない(事実がどうであるにせよ、少なくとも建前はそうなっている)。  なぜそうしていけないわけがある? 戦時体制不況で仕事にあぶれた若者が巷にあふれ返っている昨今、志願者には事欠かないはずである。逆立ちしてもまともな職を得られない連中に崇高な勤務先を譲ってやっていけない理由はない。万事解決、誰も損をしないではないか。  彼は先行者をどんどんごぼう抜きにしていった。一声あいさつだけしておいて、向こうから雑談を仕掛けられる前にわざと速度を上げて切り抜ける。それのくり返しだ。会話を試みてわざわざ自分から不愉快な目に遭いにいくこともあるまい。 「やあおはよう。張り切ってるね兄ちゃん」  同じ要領で抜き去ろうとしたところ、彼は壮年の夫婦に呼び止められた。善良そうな朴訥としたたたずまい、不釣り合いに高価なウィンドブレーカーを羽織り、ザックは控えめな30リットル。中高年登山者の見本市で並んでいそうな二人である。 「今日は槍平あたりまでかね」と夫。妻は興味津々といったようすで目を見開き、聞き耳を立てている。 「槍の肩までいくつもりです」  万事心得たタイミングで伴侶が割り込んできた。「肩まで! うらやましいわねえ。あたしたちにもその体力をわけてほしいわ」  雑談の雲ゆきが怪しくなってきている。槇村は次になされる質問をほぼ正確に予期できた。 「こんなご時世でしょう。あたしたちもこうして山なんかでのらくらしてるのはどうかと思ったんですけど、できることをやるべきだと思ってね」 「立派な心がけですな」 「そりゃあたしたちみたいな年寄りには、あなたみたいにちゃんとお国に貢献できないけど――」 「東海方面軍各務原基地所属です」  彼は二人を安心させてやった。自分たちの話し相手が許されざる例の非国民――良心的兵役忌避者――ではないことを明言してやることによって。 「ああよかった。あなたがそうじゃないなんて思ってたわけじゃないけど、巷にはいるでしょう、なにかと屁理屈を並び立てて軍隊に入ろうとしない若い人たちが」  青年の大学にも彼女言うところの〈なにかと屁理屈を並び立てて軍隊に入ろうしない若い人たち〉が少数ながらいたわけだが、あえて黙っていた。賛同とも反駁ともとれるあいまいな相づちで切り抜ける。 「それはそれとして、あたしも主人もこの歳ですからまあ、あなたみたいに前線で鉄砲持って戦うわけにはいかないのよね。だからこうして銃後の国民の義務をまっとうしてるわけ。わかるかしら、あたしの言ってる意味?」  槇村は抜かりなく了解しているというニュアンスが伝わるよう、何度も大仰にうなずく。「戦時体制だからといって倹約するのは悪手です。銃後の国民には平時と変わらない生活をしてもらい、経済を回していただく。それが国力の増大にもつながる」 「その通り。兄ちゃんは模範的な若者だな」夫がやたらと青年の肩を叩いてきた。「あんたみたいに万事よろしく心得た人間が戦ってくれりゃ、この国も安泰さ」  ここらあたりが潮時だった。彼は手を振っていとまを告げ、足早に歩き始めた。忍耐力も限界に近かった。適用年齢外という免罪符を振りかざし、圧倒的な投票率で若年世代を戦場へ送り込んでいる悪魔の手先ども。彼らは槇村に休学を強制させ、人生設計を完膚なきまでに破壊せしめた自覚すらないのである。銃後の国民の義務が聞いて呆れる。  槇村少尉候補生はほんのわずかな衝撃で爆発を起こすニトログリセリンさながらの鬱積した不満を抱えながら、黙々と林道を歩き通した。  白出沢を渡渉し、静謐な樹林帯を軽快に通過、午前9時30分には槍平に着いていた。
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