4 槇村啓一郎の回想 同期の桜

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4 槇村啓一郎の回想 同期の桜

 軍隊生活は槇村にとって、想像以上の地獄であった。  上限関係の厳しさはもはや常軌を逸しているとしか思えないほど厳格で、先輩と廊下ですれちがうことがあれば即敬礼、肘の角度がまずければその場で修正(あごに一発)である。もし敬礼を怠るようなことがあれば、そのときはあれこれ言いわけを考える必要はない。葬儀社へ自分の葬式を予約したほうが手っ取り早いというものだ。  教官は座学、技術科目、実践科目問わず誰一人として人間の心を持ち合わせている者はおらず、わずかな瑕疵を見つけては訓練生をいびり倒す。  中国語の座学中、中嶋という名の候補生がふざけた発音を連発し、周りの人間を笑わせている場面があった。教官に続いて発音せよという課題だったのだが、中嶋はわざと中国人のカリカチュアを演じてみせたのだった。誰もが驚いたことに、彼は修正されなかった。あくまでその場では、だが。  中嶋某は数時間後に懲罰室へ呼び出され、さらに数時間が経過したのち、憔悴した様子でタコ部屋へ戻ってきた。なにがあったのか同室の人間にも語らず、それ以降中嶋は陽気なお調子者という本来の性格を一度も見せることはなかった。  やむをえないことであるが、それを境に懲罰室には人格改造用のひどく不愉快な機械があるのだといううわさが立った。それの作用機序は以下の通りである。  ①こめかみを万力で挟みこむ、②徐々にクランクを回して圧力を強める、③懲罰室に悲鳴がこだまし、許しを請う被験者の嘆願がなされても拷問を続ける、④一人前の兵士にふさわしい性格が醸成される。槇村を始めとする半人前の兵士たちは、それが事実でないことをひたすら祈った。  各務原基地には交代や負傷によって前線から帰還した兵士もおり、彼らは威張りくさった実戦経験のない教官たちとは対照的に、口数は極端に少なく、影のように基地内の廊下をそぞろ歩いているのだった。  興味津々の訓練生が実戦がどんな様子かを尋ねると、決まって彼らはこう答える。「いけばわかる。もっともそのとき、おまえさんは後悔してるだろうがな」  鬼のような教官どもの出すむちゃくちゃな課題をこなしながら、どうにか命をつないでいく。それが槇村啓一郎の軍隊生活のすべてであった。      *     *     * 「あの教練とかいうのはなんなんだいったい。なあきさまら」タコ部屋に戻ってくるなり、同室の檜山大介――入隊式で早速修正を受けた犠牲者第一号――はごろりと寝棚へ横になった。「あんなもんが実戦にどう役立つのかぜひとも教えてほしいね」  訓練生の寝泊まりするタコ部屋は、軍隊らしく無駄を省いた簡素な造りである。縦横七メートルほどの正方形のなかに足をぎりぎり伸ばせる程度の寝棚が二段三列に並び、最大で合計六人がひしめき合える勘定だ。  パーソナルスペースは皆無、支給された各自の荷物を置いてしまうともう、立錐の余地もない。槇村はこの監獄とどっこいどっこいの高級マンションに放り込まれた際、酸素の欠乏を覚えたほどだった。  檜山大介は吊り上がった目が特徴的な皮肉屋である。ことあるごとに軍隊の非能率的な部分をあげつらい、同室者へこぼさずにはいられない。連帯責任を嫌い、組織に反抗したがる典型的な昨今の大学生であった。  そんな檜山の愚痴には誰も応じなかった。室内には槇村のほかに同期の室田武志(むろたたけし)がいるのだが、すっかり彼の愚痴に食傷しているふしがあった。たとえほんのわずかでも軍隊批判が誰かの耳に入る可能性がある限り、それに同調するのは自殺行為である。 「かしらあ――!」かまわず檜山は続ける。教練のカリカチュアを演じてみせ、いかにこの訓練がバカバカしいかを同室の人間たちにわからせようと必死になっている。「気を――!」  最後の部分をほとんど爆発したかのように命じる五十嵐大尉のくせの模倣が妙にうまかったので、槇村は不覚にも吹き出してしまった。 「おうきさま、そう思うだろうが。二列横隊をちょこまかカニみたいに動いて寸分の狂いもなく作ってさ、上官どのがミリ単位でずれてるやつを探し出してぶん殴ってる隙にマシンガンでズババババ! 全滅だ。それが戦場なんじゃないのかね」  槇村は肩をすくめた。「そりゃそうだけどさ。規律の維持が目的だって言ってたろ、五十嵐大尉どのが」 「それならそれでもっとましな方法があるだろうが。なんであんな幼稚園児の管理みたいなまねをやらされるのか理解できんな」 「うるさいな、俺は眠りたいんだよ。ちょっと黙ってろ」  室田が口を挟んだ。大学ではフットボールのレギュラーを仰せつかっていた屈強な男で、この手の縦割り社会にいち早く順応した口である。髪をクルー・カットに短く刈り、身長183センチメートル、体重は85キログラムを誇る巨漢だ。 「教練は訓練の一環である。したがって俺たちはそれをやる。以上証明終わり」 「聞いたかね、いまのありがたいご高説を? 循環論法のお手本みたいな代物じゃないか」  室田は反論しなかった。ごろりと寝返りを打ち、少しでも檜山から遠ざかろうとむなしい努力を続けている。 「明日は長距離行軍の訓練でありますが、傑作なことに40キロをなんなんとする雑嚢を背負っての恐るべきメニューときた。きょうび固定型の重機関銃でもそんなに重くないのに、いったい俺たちはなにを運ばされるんだろうね。超ウラン元素かなにかかね?」 「想定重量ぴったりを背負えるだけじゃ訓練にならんだろうが。余分な荷物も運べて初めて、実戦で訓練の成果を発揮できる。そんなこともわからんのか、きさまは」 「そうはおっしゃいますがね室田少尉候補生どの、その余分な荷物重量が多すぎやしないかと自分は言ってるんですがね」  ゆっくりと寝棚から大男が身体を起こし、へりに腰かけて檜山をじろりと睨む。「きさま、なんで軍隊にいるんだ。さっさと辞めればいいだろうが」 「そうできるならとっくにそうしてるよ」 「じゃあいますぐ離隊届を書けよ。誰も止めねえし、離隊できない決まりもない。きさまは要するに度胸がねえんだ、軍隊から逃げ帰ったあとに非国民だとののしられる度胸がな」 「落ち着けって二人とも。俺たちは仲間じゃないか。同じ釜の飯を食って、毎日厳しい訓練を受けてる仲間だろう」  槇村の仲裁はむなしく響いた。三人は出身大学もばらばらで、性格も似通っているとは言いがたい。彼らの共通点はたったひとつ、ある日召集令状(赤紙)が郵便ポストに入っているのを見つけて愕然としたという経験を共有しているのみである。仲間などという崇高な関係からはほど遠い。 「槇村、きさまはともかく、俺は愚痴ばっかりこぼす女々しい誰かさんを仲間と思ったことは一度もないぞ。これだけははっきりさせとくがな」 「これだけははっきりさせとくがな」檜山は大男の口調を嘲笑的に演じた。「俺も脊髄反射的に軍隊ののたまうたわごとを唯々諾々と吸収してるような脳筋野郎を仲間と思ったことは一度もないぜ」 「誰が脳筋野郎かもういっぺん言ってみろよ」 「何度でも言ってやるよ。きさまだよ、室田少尉候補生」  武力闘争になった時点で檜山に勝ち目はなかった。同室の皮肉屋に心底うんざりしていたのだろう、室田の拳にためらいはなかった。槇村の決死の仲裁もむなしく、室田の怒りが静まる15分ものあいだ、檜山は一方的に殴られ続けていた。  いくら憎かろうとも無抵抗の相手をぶん殴り続けるのは易しい仕事ではない。室田は床に横たわってぐったりしている檜山を一瞥したあと、乱暴に扉を開けて出ていった。  室内には暴力が残していった陰鬱な空気が漂っている。乱すのがためらわれるほどの静寂が降りていた。檜山の立てる粗い息づかいだけがそれを破っていた。 「おい、大丈夫か。いまのはきさまが悪いよ――立てるか?」 「あんなオカマパンチ効いてるはずないだろうが。いいから俺にかまうな。一人で歩ける」  皮肉屋はおぼつかない足取りで牢獄から出ていこうとしている。方向からして医務室だろう。槇村はため息をつくと、彼のあとを追った。 「ついてこなくていいって言っただろうが。きさまは俺のおふくろかなにかかよ?」 「鼻血が垂れて床が汚れてる。バレたら俺たち全員が処刑されるんだよ。頼むからこいつを鼻に充てててくれ」  檜山はおとなしく勧告にしたがった。      *     *     *  藤田軍医は志願して軍隊に編入されただけあって、誰に対しても温厚な態度で接する(当該組織のなかでは)異色の存在だ。慈愛に満ちた恵比須顔、まるまると太った軍人にあるまじき体型、すばやく無駄のない治療。各務原基地唯一の良心として崇め奉られているのも無理からぬことであろう。 「こりゃまたずいぶんと派手にやられたね。いったいどの教官が――」軍医の口もとがへの字に曲がった。「ちがうな、このケガは修正じゃない。きみたちは信じないだろうが、教官は決して長引くような負傷をさせないよう慎重に殴ってるからね」 「訓練中に転んだんであります」と檜山。 「槇村くん――だったかな。きみは真実を話してくれるんだろうね」 「自分は現場を目撃しました。檜山少尉候補生は拳大の石にけつまずき、顔面から運動場に転倒したんであります」  藤田はかすかにかぶりを振った。「もしこれが訓練生間のいざこざである場合、わたしには報告する義務がある。なにも軍は仲間同士でケンカをするなと言ってるんじゃない。血の気の多い男ばかり集められてるんだ、衝突が起こらないほうがおかしい」  軍医は消毒液のしみこんだ綿を患者の傷にそっと当て、反応を見た。猛烈な痛みを体感しているはずだが、檜山はおくびにも出さなかった。 「でもケンカはケンカだ。シャバで大人同士が殴り合えば警察沙汰になるだろう。それと同じことだ。わかったかね?」 「自分は転んだんであります」 「槇村くんも同じ意見かね。あくまで彼は転んだのだと?」 「檜山少尉候補生は転倒したんであります」 「わかったよ、きみらがそこまで言い張るならきっとそうなんだろうな。――実はさっきある訓練生がここへ顔を出してね」  恵比寿軍医は粗末なパイプいすに大きくもたれ、声に出してため息をついた。意味ありげに二人へ視線をよこす。 「間もなくある患者がここにくるはずだと彼は言ってた。なんでもそいつをこっぴどく殴ってしまったとかで、その訓練生はひどく後悔してるようだったな。万一その患者が事実を述べない可能性を考慮して、彼は自分がやったのだとバカ正直に申告していったよ。それとまことにお手数だけれども、軍医どのを通じてそいつに謝意を表明してほしいともね」  槇村は胸にこみ上げてくるものを懸命にこらえた。檜山はしきりにまばたきをくり返し、液体が流れ落ちるのを阻止しているようだった。 「軍は連帯感を醸成せよときみらに訓戒を垂れる。それは一朝一夕でできることじゃない。きみらは運悪く徴兵されただけであって、望んでこんなとこ(監獄)へきたわけじゃない。それでもこうしてお互いが他人を――それも赤の他人を思いやることができる」二度柏手を打った。「この件についてわたしはなにも知らない。それでいいね」  二人は何度も藤田軍医に頭を下げてから、医務室をあとにした。  月明かりに煌々と照らされた廊下の曲がり角に、大柄な男のシルエットが長く伸びていた。彼は檜山のほうへおっかなびっくりといった様子で近づき、不意に片手を差し出した。檜山は黙って逆の手を差し出す。  槇村はこのとき初めて、軍隊に入ってよかったと思えたのだった。
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