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5 兵役忌避者の叫び
南岳から槍ヶ岳間の稜線は、国内最難関との呼び声も高い穂高縦走ルートのなかでは例外的に、難易度の低い区間である。総じて道はなだらかで起伏も控えめ、ルート南部にそびえる長谷川ピークや飛騨泣きといった難所は皆無、3,000メートル級の空中散歩が楽しめる。
盛夏とあって陽射しは強烈だけれども、寒さを感じない程度の風が吹き渡り、汗ばんだ身体を冷やしてくれる。槇村は申しぶんのない快適なハイクを堪能していた。
南にはたおやかな山容の南岳、稜線の東をのぞけば涸沢のテント村が色鮮やかに浮かび上がっており、西には荒涼たる滝谷がクライマーの挑戦を待ち受けている。そして目指す北には小さく、しかしはっきりと槍の穂先が天を衝いていた。絶景などという程度の言葉ではとても表現しきれない、度肝を抜く光景であった。
14時すぎ、中岳を登り切ったあたりでめずらしく高齢者でない登山者とすれちがった。30代前半らしき男性と、それよりはいくらか年下と思われる女性。
二人とも近所の里山にいくような軽装をしており、ザックは街ゆき用と思われる20リットル程度の代物である。あまりにも北アルプスに似つかわしくない装備だったので、槇村は一瞬本気で二人がどこかの低山からテレポートしてきたのではないかと疑ったほどだ。
直前までなにやら言い争っていたようだが、彼が姿を現すや否や、ぴたりと口をつぐんだ。夫婦かカップルかは判断がつきかねた。
「やあこんちには。今日はどこからきたんだね?」男のほうがおなじみの問いを発した。
「自分は新穂高からです」
かすかに彼の額にしわが寄った。「ちがったら申しわけない、きみは軍人かな?」
「一応そうなります。仮入隊の身分ですが」
「なるほど、それで一応ってわけか。なんでわかったか不思議だろう」
「ひどく驚いてます」べつに不思議ではなかったが、そう思わせておいたほうが面倒が少なそうだった。
「きょうび一人称が自分というやつの九分九厘が軍人なんだな。関西人も使うけど、あいつらは二人称ってところがちがう」
「ねえ、この人に聞いてみようよ」横合いから恋人(あるいは妻)がくちばしを突っ込んできた。「どうせあんたにはわかりっこないんだから」
「あー、実は夫婦で槍に登ろうって計画を立てて、こうやってはるばる東京から北アルプスまでやってきたわけなんだけど」夫は声を落として内緒めかし、いかにも秘密の話をするぞといった様子。「槍の肩までいったのに妻が直前でビビっちゃってさ。結局穂先には登らずじまいで敗退したんだよ。笑えるだろ、上高地から3日もかけてきたってのに」
「それは残念でしたね」
夫は大げさに両手を広げ、慌てたようすで弁解し始めた。「誤解してもらっちゃ困るから言っとくけど、俺はちゃんと登ったからね、念のため」
「そんなこと話さなくていいから、大キレットのことを聞いて」
彼は大げさにぐるりと目玉を回してみせた。「それでまあ、槍以外でスリルを味わおうと思ってさ。このまま南下すれば大キレットってのがあるんだろ。そこはどうなんだい、俺たちでもいけるかな」
「どうでしょうね、自分はお二人の力量を存じてないのでなんとも判断しかねます」
「力量はお察しの通りさ。妻は穂先にビビる程度、俺はそれに毛が生えた程度」
槇村はため息を漏らすのを懸命にこらえねばならなかった。「大キレットは穂高縦走の核心部と呼ばれてる区間です。難易度は穂先登攀の比じゃありません」
「すると俺たちじゃとうてい無理そうだな。なんてったってあいつ、中岳の登りでビビってるくらいなんだから。俺はともかくあいつがいたんじゃなあ」
「さっきから全部聞こえてるよ。なにが〈穂先にはちゃんと登った〉よ。半泣きで降りられないって騒いで、あげくに70代のおじいちゃんに助けてもらいながら梯子下ったくせに」
「横合いからピーピーさえずるんじゃない。俺はいまこの兄ちゃんと話してんだ、くちばしを突っ込んでくるなよ」
妻は遠慮なく、鋭く尖ったくちばしをドリルみたいに差し込んだ。「ホントあんたって口ばっかりだよね。なにもかも中途半端。仕事もすぐ辞めるし、あげくに軍隊も辞めたよね。あんたがなんて言ったか覚えてる? 『俺は立派にやってみせる。仕事なんざすぐ見つかる』。で、いまのご身分はどうなってるのかしら。教えてもらえる?」
「それ以上しゃべるんじゃない。本気で怒るぞ、あばずれの売女め」
「それじゃ、自分はこれで」
槇村は早々にいとまを告げた。が、逃げられなかった。乱暴に肩を掴まれた。「待てよ。俺になにか言いたいことがあるんじゃないのかい、崇高なる軍人の兄ちゃんよ」
「これといって、ありません」
「これといって、ありませえん」夫は青年の慇懃な口調を嘲笑的に演じた。「恐れ入ったね、兵役忌避者を前にしてなにも言うことがないとは。若者たちの愛国精神はどこへいっちまったんだろうね」
「仕事が見つからないのはまことにお気の毒です」
「利いたふうな口叩いてくれるじゃないか。傑作だよ正味な話。適用年齢ぎりぎりで徴兵されて、クソ軍隊に入れられた。クソ教練、クソ長距離行軍、クソ上官のクソ修正。いままで生きてきていちばん無駄な8か月だったよ。そのあと覚悟のあるやつだけ本入隊しろと言われて、俺は覚悟もやる気もなかったからバックレた。それだけだ、文句あるか?」
「ですから」少尉候補生は深々と息を吸い込み、言葉とともに吐き出した。「これといって、ありません」
四方を絶景に囲まれた最高のロケーションにもかかわらず、中岳山頂はこの世でもっとも居心地の悪い座標になりつつあった。やがて目を逸らしたまま、夫がぽつりと漏らした。「怒鳴ったりして悪かったよ」
「気にしてませんよ」
「兄ちゃんは心が広いな」夫は大人げないまねをやらかした者が感じる気恥ずかしさに直面しているらしく、落ち着かなげに足を踏みかえている。「ホントにすまん。悪かった」
「その代わりと言ってはなんですが、ひとつだけ聞いてもいいでしょうか」
男の顔が目に見えて輝いた。罪滅ぼしがそれだけですんでよいのだろうかと叫びださんばかりである。「ああ、なんでも聞いてくれ。妻のスリーサイズを教えろと言われても喜んで答えるよ」
「兵役を忌避したことを後悔してますか」
彼は槇村青年の顔をまじまじと眺めてきた。相手がどうやら正気らしいと悟ると、ゆっくりとかぶりを振り、つぶやいた。「……ああ、してる」
少尉候補生は丁重に礼を述べ、眼前に迫っている槍の肩を目指してペースを上げた。
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