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覚
心地い風が吹き、どこまでも吸い込まれそうな青い空。スズメたちが戯れる声が響く早朝。広目寮の一室に眠る青年の姿があった。
「……んっ」
良く寝た、という清々しいものではなく、深い苦しみからようやく解放されたような感覚だった。
「目が覚めた?」
青年が声の方へ眼を遣ると、優しい顔がこちらを見ていた。すべての不安をぬぐえるほどの温かい表情。安心感とはこの事かと青年は思う。
「ここは、隠儺師の寮ですか?」
「うん、そう。四つの寮の中で西は大阪にある広目寮。状況把握できるくらいには意識もはっきりしてるみたいだね。もう少し寝ていてもいいし、動けそうなら……」
「大丈夫です。お世話を、かけます」
甘えることを知らない、許さないような青年の態度に、優しい顔の男は少し困った顔で笑い返した。
「じゃあ、今から寮長のところへ案内しようか。他のみんなへの挨拶もしなくちゃだし」
「はい、お願いします」
青年は軽く礼をし、改めて男の顔をまじまじと見つめた。
「あのぉ……貴方も隠儺師の方ですか? いや、目の色が……隠儺師は皆日本人かと思っていたので」
青年は青緑というよりさらに鮮やかな、ピーコックグリーンの瞳を珍しそうに覗き込んだ。分けられた長い前髪と整えられた髪の毛は上品な顔立ちを一層際立たせている。青年より華奢ですらりとした手足に品格が漂う。
「佐藤晶馬だよ。母はイギリス人だけど、父は日本人。だから、僕は一応日本人」
青年は不躾な質問をしてしまったかと少し気が咎めたが、晶馬は気にする様子もなく答えた。
「隠儺師にはいろんな人がいてね。外国人も今じゃ珍しくないよ。それで、君の名前は?」
「……」
晶馬はなんとなしに聞いてみただけだったのだが、青年は俯いてしまう。
「いいよいいよ、ここでは訳ありな子も多いから。言いたくない事、詮索されたくない事の一つや二つあるもんね。気にしないで」
こういう事情を察してくれるところは、隠儺師という特殊な仕事をしている者ならではなのか、青年の気持ちも救われたようだった。
晶馬は立ち上がり、部屋の障子を一息に開ける。青年が寝ていた和室の障子が開けられると、ぱっと太陽の光が差し込んだ。部屋の外には板張りの縁側があり、広く大きな庭を囲むように長く続いていた。青年は縁側へと歩を進める。
「ここが隠儺師の寮、広目寮……」
陽の明かりに目を細めながら外を見ると、満開の桜が目に飛び込んできた。庭に植えられた大きな桜の木。やはり間近で見ると豪華絢爛と言わざるを得ない。
「こっちだよ」
惚けている青年を晶馬が手招いた。晶馬に連れられて縁側を歩き、桜の木を横切ろうとしたその瞬間、花の香りがぶわっと青年の嗅覚を包み込んだ。庭の方からだ。見ると、木の根元には大量の花が咲き乱れ、まるで鮮やかな絨毯のように広がっている。色とりどりとぎっしり群れ咲く花の絨毯には、包まれるように横たわる人影があった。
それは青年と比べると小柄な男だった。歳は、同じくらいかなと推測する。男は金糸のような髪を持ち、髪は太陽の光でキラキラと煌めいていた。閉じた目元に長く生えそろった睫毛も金色に輝いている。絹糸のような髪と睫毛は、穏やかな風に吹かれそよそよと揺れていた。金色髪の男は花に囲まれ気持ちよさそうに眠っている。周りには蝶までもがひらひらと舞い、その優雅な光景の中にいる男はまるで――
「――まるで王子様みたいだ」
青年もついつい見惚れてしまう。
「あはは。今起こすときっと怒られちゃうから、また後で紹介するね」
晶馬はいつもの風景といったように特に気にする様子もなく先に進んでいく。しかし青年にとっては印象的な光景だった。
(でも、桜の木の下にあんなに花が咲くものなのかな)
不思議には思ったが、ここは隠儺師達が集う広目寮。奇異はもはや妙ではない。むしろこの光景に心がうずうずとした。
「隠儺師には不思議な人が多いのですか?」
「そうだねえ、変わった人は多いかも。今から案内するのは広目寮の寮長。四つの寮にはそれぞれ寮長がいるんだけど、広目寮の寮長は唯一咒法が使えないんだ。これも変わってるでしょ?」
にこやかに笑う晶馬に案内されたのは奥座敷。二十畳はあろうかという大部屋だ。そこに泰然と坐する老人がいた。
名は土岐田源三郎。御年八十九歳。
歳に似合わず快活で、背筋の伸びた老人だった。白髪の眉毛を長く垂らすのは、老人会での流行りらしい。
部屋にはシンプルに座布団が二枚。上座に土岐田が座り、その前に青年が膝を正して座る。
「土岐田寮長。この度は一咒法師を受け入れて頂きありがとうございます」
青年は丁寧に座礼した。
「うむ、直りなさい」
そう言われ、青年は顔を上げる。
「比叡山か。また険しい場所におったものよの。何せ昨晩は比叡山の悪鬼の門が破られ、隠がヒトの世界に流れ込んだ。一大事じゃったな」
眉毛と同じく伸ばした白い髭を撫でながら土岐田は話した。
「お主の事情は聞いておる。法師の家に生まれ、法師の子供として育ってきた。それがまさかその体に四神が仕えておるとはな。お主のような希少な存在、千年以上は表れておらんというのに」
青年は姿勢を正して尚、顔は俯いたままだった。土岐田はその青年の姿を見ると、大きなため息をついた。
「俺の村は悪鬼の門を守ってきました。俺もそれが使命だと思っていました。昨晩、真実を聞かされるまでは」
青年の膝に置かれた拳にぐっと力が入る。
咒法師の中でも強い力を持つ隠儺師。青年はその力を授かった者であった。咒法は式神使い。その身には、式神として青龍、朱雀、白虎、玄武が仕えている。この世には十二の神将が存在しているが、一人の隠儺師に仕える神将はせいぜい二体。それを一人で四体を持ち、しかも十二体の中でも強力とされる四神を従える隠儺師は千年以上現れていなかった。
「本来ならば豪然たる力をもつ式神よ。悪鬼の門が破られたとしても打倒し抑え込むことも易かろうに。お主は今まで戦う為に四神を使ったことがないとな」
「はい。今まで隠儺師の資格があるなんて知らなかった。戦い方も教えてもらってない。ですから、ここにいてもお役に立てるとは思えません」
青年の顔はさらに曇っていく。それでも青年は前を向き、土岐田に伝えた。
「でも、俺に出来ることがあるなら……」
土岐田は青年の経験の有無に関しては大して問題視していないようだった。
「ほほ。よいよい。お主に出来ることから始めるとよい。ここには扱いづらい者が多いがな、皆力になってくれようぞ」
扱いづらい、という言葉に反応して、部屋の隅で話を聞いていた晶馬がふっと笑いを漏らした。
「して――お主の名は何という?」
「比叡山にいた頃から名乗ることを禁じられていました。比叡山から逃げて来た俺が名乗っていいのか分かりません。今はまだ伏せていたいのです」
土岐田はふむと青年の言葉に耳を傾ける。
「そうか。ここでゆっくり自分を探すとよい。名は無理に持つもんじゃない。名乗れる時が来たら、名乗ればよい」
相変わらず快活に笑う。笑い飛ばしてくれる土岐田に改めて感謝の意を込め、深く礼をした。
「では晶馬、後は頼んだぞ」
ほほほと笑いながら席を立つ土岐田を青年は再び座礼をし、見送った。
「じゃぁ、改めてよろしくね……うーんと、少年君?」
「いえ、少年という歳では……」
「え、でもまだ十六、七歳でしょ? 僕からしたらまだまだ少年だよ」
晶馬が柔らかく笑って手を差し出した。
「十七歳です。晶馬さん、よろしくお願いします」
改めて握手を交わす。
「さっき君が寝ていたのが君の部屋になるんだけど、問題ないかな?」
もちろん、と青年は返した。
「ところで、お腹は空いてる? これから朝ご飯なんだけど、朝は仕事がない限り寮のみんなで揃って食べてるんだ。今日は丁度みんな揃ってると思うんだけど」
青年は背筋がピリピリするのを感じた。どんな隠儺師が何人いるのかもまだ知らなかったし、力も使えず隠祓いもしてこなかった自分が受け入れられるのか、不安だった。しかし、ここで後に引くわけにはいかない。ここで生きていかなくてはいけない。今自分に出来ることからやっていこう。そう腹を決めた。と同時に腹が鳴った。
「はい! 行きます! お腹、空きました!」
晶馬は笑って、いいねいいねと楽しそうに返した。じゃあ後で迎えにいくね、と言い残し部屋を出ていった。
青年も「押忍」と気合を入れ、奥座敷を後にする。青年が部屋へ戻る途中、桜の木の下の王子様は花絨毯と共にすでに姿を消していた。代わりにこんもりと紙の山が積まれている。これはまた不思議な光景だなと首をかしげる。しかし、それは誰が何のために置いていったものなのか、まだ青年には知る由もなかった。
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