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「また会いましたね」
「はは…先程はどうも」
友人が凄い顔をしている。無言でもとてもうるさい。言いたいことはわかってる。なんで神がお前を知ってるんだよ? だろ。
「ご迷惑をお掛けしまして…もう大丈夫です」
「迷惑なんて思ってないですよ。大事がなくてよかった」
そう穏やかに笑うのは、先ほど私に声を掛けてきた青年だった。私もそりゃ驚いた。サイン会の会場で、司会者に呼ばれ出てきたのが彼だったのだから。新鋭気鋭の若手作家。彼が本日の主役だったとは。
動揺しすぎてトークの内容は覚えていないわけだけど、友人に「せっかく来たんだし話ししてもらえよ。記念にさ」とあれよあれよと引っ立て…いや、連れて行かれ、青年の目の前まで来てしまったら口を開かないわけにはいかない。
「本当にすごい偶然だな。まさか僕のサイン会で会うなんて」
イベント自体は終了して私が最後のファンになるためか青年はリラックスした様子で世間話を続ける。しかしファンどころかまだ彼の著作すら読んだことのない私にとったら罪悪感が半端ではない。
「あの、すみません、実は今日は友だちの付き添いで来ていたので…。この機会に私も読んでおきます」
馬鹿正直に白状する。青年は虚を衝かれてから、一笑した。
「はい。是非」
気分を害することもなく、彼がにこやかに手を差し出してきた。
そこで私はサイン会には握手もつきものだったことを今更ながら思い出した。
僅かに躊躇する。
当たり前だが、握手は他者の手に触れる。そのひとに触るのだ。これが、私が人集りの一番後ろにいて存在を消していた最大の理由だ。本当に一冊だけでも読んで、持っていればよかった。そうすれば本にサインしてもらうことに代えられただろうに。
しかし、こうなったら仕方ない。「あっ」と、私の横で友人が声をあげたのを目配せで制し、変な沈黙が生まれる前に、覚悟を決めて差し出された手を取った。
昔は大変だったけれど、最近は大分コントロール出来るようになった。
もしも---“視えて”しまったら意識を遮断するように努めればいい。
そう高を括っていた矢先だった。
モノクロの田舎の景色が視えた、と思ったら、写真のフィルムのネガが切り替わるように長閑な田舎の景色が駆け抜けていく。
田んぼ、あぜ道、連なる山々…
そして、唐突に目の前に大きな屋敷が聳えた。固く閉ざされた門扉が目の前にあった。
まるで本当に屋敷の前に立ち尽くしているような圧迫感を覚え息を呑む。
ギ…、と何かが軋む音が生々しく聴こえた。
「---また感想を聞かせてください」
俄に我に返る。
手はとっくに離されていた。
穏やかな笑みを浮かべた青年が私を見ている。
呆然とした私は「はい」と返すので精一杯だった。
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