10 ひとりぐらし

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10 ひとりぐらし

 週末、ナツコさんが物件探しに付き添うと申し出てくれたのだけど、これ以上迷惑をかけるのが嫌で辞退した。でもそれをそのまま伝えるときっと嫌な顔をすると思ったので、仕事の打ち合わせがあってその合間に動くから時間が読めない、と嘘をついた。  ひとりで会社から遠くない土地にある数件の不動産屋をまわり、一番条件に近い物件を仮契約した。ナツコさんの職場とも自宅とも遠く、生活行動圏内が重ならない土地を選んだ。  一週間後までに物件の周辺や最寄り駅を散策して、もし余裕があれば他にもいくつか見て比べて最終判断する予定だ。ナツコさんにはラインでその旨を伝えた。  物件探しはひとりで歩き回る時間が多くて、その間に頭の中も心の中もだいぶ冷静になれた。そして、ノンケのナツコさんを下手に巻き込まなくて済んで本当に良かったな、と思う。マジョリティのナツコさんにとってとんでもない人生の汚点とも言える経歴を持たせてしまうところだった。  感情が停止する瞬間というのを、今まで何度味わっただろう。何度経験しても慣れない瞬間。  凄まじい諦観と、その直後に襲来する絶望感。それから、自分の目の前にスッと紗幕のようなフィルターのようなものが一枚降りて、目の前の世界から主観が遮断される感覚。でもそれにさえ耐えれば後はどうってことない。自分の周りで何が起きようと全てのことが客観的で他人事となり、それを俯瞰(ふかん)しているような感覚に陥る。それで、終わり。そこからは、誰かが何かちょっとした衝撃を与えてくれない限りずっとそのまま惰性で流されていくだけだ。  ナツコさんの家を出るまでは、あまり彼女に接触しないようにしよう。そう思いながら、残っていた有給を使って、ナツコさんが仕事に出ている間に、いつの間にか増えていた自分の荷物を少しずつまとめた。  また、コソコソと、隠れるようにして荷物を詰めている。自分がそこにいた形跡をひとつずつ消して、痕跡が残らないようにこっそりと消える。離婚した時と同じだ。また、逃げ出すのだ。  どうして上手くいかないのだろう。  人を好きになるのって、こんなにめんどくさかったっけ? 世の中の人たちもみんな、こんなにしんどい思いをして恋愛をしているの? 辛いのは自分だけ? セクシュアルマイノリティだから? もし自分がストレートで相手が男性なら、こんな思いをしないで済んだ?  どんなに自分に疑問を投げかけても、何も答えは返って来ない。考えるだけ無駄でしんどいだけ。だから、出来るだけ考えるのをやめた。  今になってようやく、義郎と別れた時に言われたことが身に沁みる。  気を張りすぎ。真面目すぎ。手を抜かなさすぎ。いつか壊れるぞ、と言われたことが現実になりそうでこわい。そういえば、夫婦だった頃もいつも言われていた。頭が固いだの、生徒会長かよ、だのと。  どんなに疲れて帰って来ても作ると決めた夕食は予定通りにちゃんと作っていたら、融通がきかないと怒られた。デートの後、どうしてもその場の流れで車の中で甘い雰囲気になった時も、こんなところでは出来ないと義郎を突っぱねて頭が固すぎると呆れられた。自分でもほとほと嫌気がさすほど真面目で頭が固い。ルールに縛られて雁字搦めになって、そのせいで人生の楽しみの半分くらいは損をしているかも知れない。しかもそのルールは、自分で勝手に作り出したものだ。誰に強制されているわけでもない。そんなものに縛られて、自分で自分の首を絞めているのだ。分かっているのにそこから抜け出せないのは本当に情けない。  なぜこうなったのか、思い当たるのは親からのしつけだ。周りに迷惑をかけないように、常識から外れないように、常に正しい道を歩き続けられるように、と厳しく躾けられた。自分がセクシュアルマイノリティであることを自分でも見ないようにしていたのも、そういうベースがあるからかも知れない。  とにかく常識的で真っ当な人生を歩まなければ、ということを信念にして生きてきた。親の価値観をそのまま丸写ししたような、彼らが思うところの『常識』をまんまと刷り込まれて、疑いもせずそれを目標として成長した。そして、それが窮屈だという思いはあるけれど、それを壊すこともできずにストレスを抱えたまま生きてきたのだ。  常識とは何か、真っ当とはどういうことか、今なら色々な世界を知って、色々な人の価値観を垣間見て、それらが決して普遍的な一つではないということをわかっている。でも、昔は違った。親が吹き込んだ常識が絶対で全てだった。そこから抜け出したくて真逆のワールドであろう美大に進学することを選んで、ほんの少しは結び目が緩くなったと思う。それでも完全に解けるところまでは行けなかった。  もしかしたら、今がそういう自分を変えられるタイミングなのかも知れない、と密かに期待をしていた。でも、違った。きっとわたしは、これからも今まで通りに色々なことに縛られて生きていくのだろう。  別に、平気だ。今まで通り、ただ生きていくだけだ。  結局その後、他の物件を見てまわる気にもなれず、最初に仮契約した物件をそのまま本契約した。  新しい部屋は、何の特徴もない普通の1DKだった。建物も、部屋も、普通だ。急であまり準備が出来なかったので、家具などもまだない。義郎と暮らしていたマンションを出る時、大切なものだけを持って出た。そのままナツコさんの家に転がり込んで、衣類などは増えたけれど、また数個のダンボール程度での引越だ。引越業者に頼むほどでもなく、レンタカーを借りて自分で運んでおしまい。実にあっけない引越だった。  荷物を部屋に入れ終わって、あまりの殺風景さに思わず笑いがこみ上げる。これだけいろいろな思いをして必死に駆けずり回ってようやくたどり着いた自分ひとりの城が、この部屋か。カーテンも長さが合っていない。しかもベランダと出窓の所では柄が違う。早く自分の好きなもので埋めたい、と思う。自分の好きなもの。好きな、もの……。  ふと、ナツコさんの家を思い出す。  ナツコさんの部屋は、居心地が良かった。家具も小物も照明も好みで、全部好きだった。オリエンタルデザインのものが多くて、オレンジ色の柔らかい灯りに雰囲気がよく合っていた。  そんなものを今更思い出してどうするのか、と自分でツッコミを入れて、苦し紛れに無理矢理笑った。  空しさに押し潰されそうになる。  もう終わったのに。そう思うと、ここ数日ずっと我慢していた何かがホロホロと崩れ始めた。  今まで、感情を封印した後はたいていあっさりさっぱり割り切りができて、上辺だけでも何事もなかったかのように元どおりの日常生活を送ることができていた。でも、今回は何かがおかしい。こうして、いとも簡単に綻びが露呈してしまう。こんなこと、今までなかったのに。  ひとりの部屋は恐ろしいほど閑かで、ほんの小さな声でも何倍にも増幅されて聞こえる気がして、わたしは声を出さずに泣いた。
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