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1 はじまり
掌の上に乗る長方形のカラフルな紙。
現実と同じ色合いで、文字や絵ではなく、現実と同じ物体がまるで現実が切り取られたようにそっくりそのまま写し出されている。
一瞬、思考にターボがかかり、直後にリミッターが作動した。
いやぁ、ないわ。ない、ない。この暗さの中で照明ナシ手持ちとか
これだけ肌出しててアプリ加工とか、素人仕事かよ
うわぁ、画角に色気がなさすぎる……身体はいい感じにエロいのに、なんで一番オイシイところを切るかなぁ
あまりに生々しくて衝撃的な光景に、わたしの脳は完全に現実逃避をしようとしていた。
真っ白なシーツの上に横たわり、見下ろすカメラに向かって手をのばしている女性。アッパーシーツに包まれている身体はおそらく、衣服を身につけていない。
こんなアダルト向けの取材、最近担当したっけ?
しかも、自宅に送ってもらうように依頼した写真なんてあったっけ?
そんな疑問が頭の中をグルグルと巡る。できればその方向の流れで片付けたかった。でも、写真が入れられていた嫌味なほど真っ白い封筒に宛名も差出人も書かれていないことには気づいていて、これがただの郵便物ではないことは最初からわかっていた。
そもそも、今どき出版社で扱う写真はこのような紙焼きの写真はほとんどない。たいてい、データかポジフィルムだ。封筒に入った紙焼き写真、という時点で、仕事のものであるはずがない。
写真は数枚というレベルではなかった。
見ない方がいい、という気持ちが先に来て、でも事実を知りたい欲望がじわじわと湧き、恐る恐る、他の写真を広げた。
一緒に写っている男は、間違いなく夫の義郎だった。
裸で、おそらくホテルのベッドの上だ。見た事のない若い女性。一緒に裸で寄り添っている。頬をぴったりとくっつけたふたりの顔の写真。義郎が手を伸ばしてふたりの上半身が入るように写したセルフィー。女性はアッパーシーツを身体に巻いているが、明らかに情事の前後、という風情だ。そして、上からベッドに横になっている女性を見下ろして撮った写真。女性の頬は上気し、切なそうに眉を歪めている。バランスの悪い構図といい、甘いフォーカスといい、何かをしながら片手で強引にシャッターボタンを押したような、そんな写真。
何か。何かをしながら。それは、百歩譲っても譲らなくても情事の最中としか思えない。
その他に、シャワールームでふざけた表情の女性や、床に脱ぎ散らかされた衣類や下着の写真。そういうものが十数枚入っていた。
バチが当たった、と思った。
わたしが義郎を利用するような自分勝手な結婚をしたから、天罰が下ったのだと思った。
幸い、泣いたり取り乱したりするようなことはなかった。こんなこと、たいしたことではない。よくある話だ。よくある夫婦の、よくある展開。
割と、普通のことだ。
****************
はじまりは、修羅場だった。
大学卒業後、中堅の出版社に勤めて2年半ほど経った頃、3歳年上の上司である高川義郎から交際を申し込まれた。
同じ編集部で、毎月同じ修羅場を繰り返し乗り越えてきている、気心の知れた仲間のひとり。信頼はしているし、嫌いではない。でも、その頃わたしは真剣な男女交際にあまり前向きな気持ちを持てずにいた。だから、職場恋愛に抵抗があるという理由をつけて、よく考えたいからと返事を保留にしてもらっていた。
それでもその判断の材料にして欲しいからと、食事やちょっとしたお出かけに誘われて、行くだけなら、とそれには応じていた。
ある日、彼の行きつけだというお店に行った時。普通に楽しく食事をしていたわたしたちの前に、1人の女性が現れた。
知らない女性。
その人は、義郎の恋人だと自称した。前の交際相手とはとっくに別れていたと聞いていたので、単純に驚いて、その直後に嫌な予感に襲われた。
義郎の噂を、以前聞いたことがあった。遊んでいる、と。下品な食い散らかし方はしないけれど、上手に女性を何人も抱えている、という噂があった。
まさか自分がその中のひとりになるとは思ってもいなかったけれど、目の前の、どこかの映画やドラマの中に出てきそうな陳腐な修羅場は、離れたところから客観的に見てみたいと思えるようなおかしな光景だった。
女性が取り乱し、食事の並んだテーブルを両手でバンバン叩いて大きな音を立てた。同時に周囲に聞こえるような声で義郎とわたしを罵った。
今すぐ別れて!
泥棒!
裏切り者!
実際のところ、わたしたちはまだ交際を始めてはいなかったので、別れてと言われてもそれは困る。ただ、彼女にとっては義郎が自分よりわたしを選んだように見えたのだろう。
店内が異様な雰囲気に包まれて、周囲の客たちがざわついた。義郎が慌てて女性を宥めにかかる。とりあえず隣の席に座らせて落ち着かせようとしたのだけれど、女性は全くクールダウンすることなく、義郎に掴みかかるように訴えを続けた。
「この人は会社の部下で、別に付き合ってる人じゃないから」
そう説明する義郎の声は、興奮している彼女には届いていないようだった。
どうにも冷静になってくれない女性に困り果てた義郎が、彼女の肩を抱えるように誘導して、荷物を掴んで席を立った。
「槙ちゃん、ごめん。今日はこれで失礼するね」
義郎は鞄から財布を取り出すと、一万円札を抜いてテーブルに置き、騒ぎ続ける女性を強引に引きずって店を出ていった。
ひとり取り残されたわたしは、周囲の雑音をどこか遠くで聞きながら、目の前に置かれた食べかけの料理、それとおそらく食事の代金よりはだいぶ多めの一万円というお金をボーッと眺めていた。とんでもない現場に居合わせた割に、わたしの心は妙に冷めていて、どこか他人事のように傍観していた。そんな自分に少し驚いた。
わたしたちは付き合ってはいない。ただ、交際は申し込まれた。義郎は、前の恋愛はもう終わったと言っていた。さっきの女性の言うことが正しければ、義郎が嘘をついていたということだ。
わたしは何も悪くないのに、と思ったら、ざわつく店内の他の客のことなどどうでもよくなった。
無造作に置かれた一万円札を手に取ると、乱雑に折ってバッグの中に突っ込み、そのまま食事を続けた。今の出来事に関しては、わたしにも料理にも罪はない。
結局、自分の分は最後まで完食して、自分の財布から食事代をふたり分払った。
大丈夫ですか、と声をかけてくれた店員さんに、騒がせてしまったこととお料理を残してしまったことを謝罪して、お店を後にした。もうこのお店には二度と来ることはないだろうな、と思うと残念なくらい美味しいお店だった。
その日の夜、義郎から電話がかかってきた。
正直、面倒だった。前の彼女とちゃんと別れていないうちに別の女性に声をかけるなんて、やはり以前聞いた噂は本当だったのか、と残念に思った。
「さっきの人とは本当にきっぱり別れてるから」
お店でのゴタゴタを何度も謝った義郎は、わたしが何も言わないうちからそう弁解した。それが本当かどうかはわからない。義郎が別れたつもりでいても、彼女がどう思っているかは確かめようもない。
それでも義郎は、あの人とはとっくに終わっている、としつこく主張した。
「だから、槙ちゃんとお付き合いしたい気持ちに変わりはないです」
あまりに熱心でまっすぐな訴えに、気持ちがほんの少し揺らいだ。
もしかしたら、わたしにとってはちょうどいい交際の申し込みだったのかも知れない。表面的に誰か適当に付き合える男性が欲しいと思っていたところだったからだ。
ただ、誰でもいいというわけではなかったし、面倒なことになるのは避けたかったので、即答はしないようにして一応慎重に判断できるようにはした。
その後の義郎からのアプローチも、実直で嘘はないように見えた。返事を曖昧に濁すわたしに、義郎は辛抱強く誠実に向き合い続け、本当に別の女性の影も一切見えなかった。
だから、受け入れた。
交際の申し込みから4ヶ月以上経って、わたしはそれを受けて交際を開始した。不安な要素がなくなっている状態がキープされていることが確認できたので、義郎を受け入れることにした。
わたしは、『男性とお付き合い』という形をとりたかった。そして、あわよくば、そのまま結婚しても良いとも思っていた。
後から考えればこの判断こそが全ての間違いの大元だったのだけれど、その時はそんなことにはちっとも気づいていなかった。
交際開始から1年と少し経った頃、自然に結婚の話が出た。両家の家族にはお互い面識ができていて、それぞれの印象も良かったし、結婚への障害はないように見えた。わたしが25歳で義郎が28歳と適齢だし、お互いの仕事も安定していた。結婚後の生活面においても意見はしっかり交換できて、働き方や家のことの分担など特に揉めることもなく話は進んでいった。
ジューンブライドは幸せになれる、なんていう古臭い売り文句を真に受けて、たいして興味もないし信じてもいないくせに挙式の日取りをわざわざ6月にした。
不安はなかった。
わたしの心の奥底に潜む、ほんの小さな黒い火種以外は。
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