2 決定的なこと

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2 決定的なこと

 義郎と結婚して2年の年月が過ぎた。  暮らしは穏やかで、仕事も家庭も安定していた。結婚前に抱えていたほんの小さな不安を忘れてしまうくらい平穏で和やかな日々だった。とりたてて大きく盛り上がる出来事などなかったけれど、逃げ出したくなる不安や不満もなく、ごく普通の、当たり前の日常だった。それは、わたしが大切なことから目を背けて何食わぬ顔で生きて行くのに十分なレベルの生活だった。  そして、それがこれからも続いていくと思っていた。  いつもと同じように会社でバタバタと仕事をこなしていたある日。ふと、体調の異変を感じたわたしは、ある予感があって帰りに薬局へ寄った。  妊娠検査薬を購入して、帰宅後にトイレで検査をした。  結果は、陽性。  はっきりと目で見てわかる、検査薬のマーク。  大丈夫だった。  普通に結婚できたし、普通にセックスもして、普通に妊娠もした。このまま普通に母親になって、どこにでもいる普通のお母さんとして人生を送っていけるのだ。  何も間違っていない。大丈夫。  それから数日経って、仕事中に突然出血したわたしは、そのまま掛かりつけの産婦人科を受診し、まさかの入院という事態に陥ってしまった。  診断は、切迫流産。このまま放置していたら流産してしまう可能性がある、というものだった。おまけに、血液検査の結果、血中のケトン体の数値がかなり高く脱水もあったので、しばらく入院して安静にし様子を見ようということになった。  妊娠がわかった時には、義郎は驚いていたけれどすごく喜んでくれた。頑張って一緒に育てていこうと約束した。少しずつつわりが始まって体調がよくない日が増えたけれど、義郎は協力的で色々と助けてくれた。  入院が決まった時も、仕事場から直接病院に行ってそのまま入院になってしまったわたしの代わりに、仕事の残りを他の人に割り振って、足りない人員も確保してくれた。そして、家から入院に必要なものを全て持ってきてくれて、びっくりするほどテキパキと動いてくれた。頼もしかった。  病院のベッドで安静にしているのは思いの外しんどくて、病気ではないのに何もしないで寝ていなくてはいけない、という状態が拷問のようだった。  寝ながらでも仕事はできると思ってスマホやノートを開いてみるのだけれど、年配の看護師から、安静というのは横になっていればいいというものではない、スマホやペンを持っていたらそれは安静とは言わない、とたしなめられてしまった。  相部屋なので、他の妊婦たちの生活音やお見舞いに来る家族とのやりとりはまる聞こえで、暇な頭はそれらの雑音や会話を残すところなく拾ってしまう。それがまた厄介で、他人のことなのに聞いてしまった出来事は我が身に起きたことのように自分の感覚と混ざり合い、頭の中が暇というのはこんなに恐ろしいものなのかと辟易した。  お腹の子を守るため、とはわかっていたけれど、安静生活はそれら全てを投げ出してしまいたいと思うほどに辛く、その弱音を吐き出さずにはいられなかった。  面会時にわたしの愚痴を聞いた義郎は、多少困惑はしていたけれど特に余計なことは言わず、鬱陶しがることもなく、ただ黙って受け止めてくれていた。その姿勢に、義郎を選んで良かった、と思った。義郎の存在と、定期的に診察を受けて超音波で確認できる胎児の心拍だけが支えだった。  義郎は休日出勤や残業が増えていたけれど、わたしが抜けた穴を埋めてもらっているのだと思うと申し訳なかった。ひとりでちゃんと家のことをやれているのかな、と心配もした。共有している家計用の口座の取引履歴をネットで確認して定期的にある程度まとまった金額が下ろされているのを何度か確認したけれど、外食やクリーニングなどでお金を使ってしまっているのかと思ったら、今は仕方がないな、と思うしかなかった。  それでも、仕事を終わらせて可能な限りお見舞いに来てくれる義郎の姿を見ていた看護師が、素敵な旦那さんですね、と褒めてくれるのを聞いて、結婚して良かったな、と思った。動けないわたしの横で短時間でも子どもの話をする義郎を見ながら、自分は彼とこれからずっと一緒に生きていくのだと何度も何度も考えた。そして、そうやって結婚を正解だったと思える出来事を沢山探した。ひたすら、探した。  夫とのやりとりも、母になるというプレッシャーも、切迫早産や安静入院という予想外のトラブルも、わたしの選択は間違っていなかった、ということを揺るぎないものにするための要素としては十分なものだった。  暇という未知の敵と戦いながらなんとか1ヶ月と数日をベッドの上で過ごしたのだけれど、その結末はあっけないものだった。  ある夜、生暖かいものが大量に下りる感覚に目覚めたわたしは、自分の腰まわりのシーツが血まみれになっていることに気づいてナースコールを押した。  夜中だったので同室の人たちを起こさないようにそのままそっとベッドごと処置室に運ばれ、駆けつけた医師からそれほど時間をかけずに完全流産と診断された。お腹の中にいた子は、その子を包む様々な組織とともに全てわたしの中から出て行ってしまった。ほんのわずかな痛みもなく、静かに、そっと。    医者の処置を受けながら、自分の身に起きたことをずいぶん客観的に見ていた気がする。血だらけになった手を看護師が拭き取ってくれている間も、あらあらすごい血ね、みたいな、別の人がされていることを傍観しているような気分でいた。医者も看護師もひたすらに冷静で、誰一人として取り乱すことなく淡々と対応してくれていたので、わたしも落ち着いていられたのかも知れない。  それなりに出血したので、身体を起こすとほんの少しだけ頭がクラクラした。医者が鉄剤を点滴に入れる指示を出していた。  洗濯することを躊躇(ためら)うほどに汚れてしまった服を、看護師が「どうしますか?」と尋ねてきたので、処分をお願いした。あっという間に汚染物を入れるビニール袋に突っ込まれてしまった衣類を見送りながら、ちょっと気に入ってた下着だったな、と思った。  身体の清拭を終えて、看護師が病室のロッカーから着替えを取ってきてくれたのだけど、上下の組み合わせがいつも自分が選んでるパターンと違っていて、そのちぐはぐなコーディネートに思わず笑ってしまった。  頭の中は本当に驚くほど冷静だ。  真夜中の呼び出しで駆けつけた義郎は、ルームウェアにコートという妙な出で立ちで、寝癖がついたままの髪型で青ざめていた。見たことのないルームウェアだな、と思い、新しいのを買ったことに気づかないほど長い間家から離れていたのだな、とどうでもいいことを考えていた。  わたしは心の中が混乱したまま、義郎にごめんねと謝った。  お腹の子を守れなくてごめんね。夜中に急に来させてごめんね。心配させてごめんね。こんなわたしと結婚させてごめんね。  ごめんなさい。  義郎は無言でじっとしていた。  医者は、このような初期の流産は母体ではなく受精卵に問題があることがほとんどだから、誰のせいでもない、と言った。  実は数日前から、診察の時に胎児の心拍が確認しにくいことが何度かあって、胎児のサイズも少し標準より小さかったことも言われていたので、ほんの少しだけ覚悟のようなものはできていたように思う。  ダメになってしまったことは、悲しかったし、辛かった。でも、心のどこかで、やっぱりね、という気持ちがわずかに存在していた。どうしてか、涙は出なかった。  妊娠初期の完全流産は、言ってみればすごく重い生理のようなもので、お腹の中に何も残っていないことがわかればあとは特に処置や治療はない。出血とほぼ同時につわりのムカムカもほとんど消えて、本当にお腹の中は空っぽになったのだな、と思い知った。  1ヶ月の入院点滴生活で水分も糖分もしっかりとれていたわたしは、気持ちが落ちついたからと次の日には退院した。寝たきり生活のおかげで筋力は落ちて頭もクラクラしていたけれど、精神的ダメージはなぜかそれほどはひどくなくて、退院に付き添ってくれた義郎と、帰ったら食べたいものの話をした。  義郎は、あえて空気が重たくならないように気遣ってくれているようだった。明るい口調で楽しい話を連発した。会話が途切れないように、次から次へと言葉を並べた。きっとその表情の裏には父親になり損ねたことへの残念な気持ちはあって、その姿をそのまま信じて、今になってやっと愛しくさえ思えた。  大丈夫。子どもは今回はダメだったけれど、義郎との関係はまた深まった、はずだ。彼と結婚して良かった、という証拠のようなものを、わたしは必死にかき集めてぎゅうぎゅうと握り固め、消えてしまわないように両手でしっかりと抱きしめた。  ****************  退院してから2週間ほど経ったある日。体調も完全に元どおりになって、仕事も通常のフルタイム勤務に戻れた頃。  いつものように、朝起きて、新聞を取りにドアポストを開けて、気づいた。  普通ドアポストに入っているようなものではない真っさらな白い封筒に、妙な違和感を覚える。結局、その違和感を押しのけて中身を確認してしまって、わたしは心のどこかの重要なパーツがカランと外れるような嫌な感覚を味わった。  メッセージや手紙の類いは入っていない。ただ、やたらと肌色の多いその写真の端に、律儀に撮影データが入っている。嫌な予感はしたが、ついその日付を頭の中でカレンダーと照らし合わせた。そして、見事に予感は的中する。  写真が撮られた時期は、わたしが切迫流産で入院している期間とぴったり合致していた。写真の日付はどれも違う日で、それはつまり彼らがそれだけ逢瀬を重ねていたということだ。  点でばら撒かれていたいくつもの事柄が、ものすごい勢いで一本の線で繋がってゆく。休日出勤、残業、短時間の見舞い、まとまった金額の臨時出費、見た事のないルームウェア……。  1ヶ月と1週間。その入院期間に、義郎は最低でもこれだけの回数、この女性とセックスをしていたのだ。手が震えて膝に力が入らず、崩れ落ちそうになる。どうしよう。どうしたらいい。  この写真をここに届けた人は、何がしたかったのだろう。本人だろうか。第三者だろうか。オートロックのマンションのドアポストまでどうやって到達したのだろう。見なかったことにして、これをこのまま捨てて、何事もなかったかのように過ごすか。それとも、義郎にこれを突き付けて、どういうことかと問いただすか。  自分はどうしたいのか。義郎に何をしたいのか。わたしは義郎とどういう生活をしたいのか。そもそも、わたしが彼と結婚をしたのはどうしてだったか。  考えても、考えても、何も浮かんでこない。凍りそうなほど冷えた脳みそが沸騰しそうなほど悩んで、結局わたしは、写真の入った封筒を義郎のデスクの上にそっと置いておくことにした。  物陰からそっと観察していると、起床した義郎はすぐに封筒を見つけ、何も疑わずに中身を確認した。そして、入っているものを確認してそのまましばらく固まっていた。どうするかと思ったら、そのまま写真を封筒ごとぐしゃりと握りつぶしてゴミ箱に捨て、そのことには一切触れようとしなかった。  わたしが、ふたりで作った子の命を守るためどんなに不安で辛い安静生活を送っていたのか、毎日のように面会に来て愚痴を聞いていた義郎は分かってくれていると思っていた。それなのに、義郎はわたしの手を握って愛を囁いて未来を語り帰った後、この女に触れていたのだ。それも、何度も。そしてその手で再びわたしの髪や頬を撫で、手を握っていた。  汚らわしいと思った。気持ち悪いと思った。信頼して、ずっと一緒に生きていくのだと決心した義郎を、汚いと思った。セックスは愛を注ぎ込まれる行為だと信じていたのが、一瞬にして、性欲という欲望の吐き出し先にされた感覚に置き換わる。悲しかった流産を、初めて「良かった」と思った。こんな人の子どもを産まずに済んで良かった、と。そして、そう思った自分を死にたくなるほど軽蔑し、嫌悪した。  最低だ。こんな自分に母親になる資格はない。産めなくて良かったのだ。  神様は本当にいるのかな、などと、普段なら絶対に思わないようなファンタジックな思考に取り憑かれる。自分の勝手な考えのために他人を利用するような結婚をしたから、バチがあたったのかも知れない。そんな幼稚な思考は、流産や夫の不貞行為という不幸が「仕方のない、自分の考えナシの言動が招いた当然の結末」だというところに行き着いた。  それからは、義郎に触れられるのを極力避けた。避けていることは義郎にも伝わったけれど、もうどうでもいい。義郎は何も言わない。当然、セックスもキスもハグも何もしなくなった。流産の予後が落ち着いて医者から子づくり再開の許可が出ても、そういう気は全く起こらない。  生活に必要な会話ややりとりは普通にしたし、訊かれたことにはちゃんと答えている。彼を恨む気持ちは消えてはいなかったけれど、それで辛く当たったり無視したりすることもなく、ただ淡々と対応していた。でも、寝室は別、食事も別で、雑談や趣味などの生活必需でないことはほぼ関わらない。  時間がたつにつれてその生活の違和感も薄れ、同じ家の中でそれぞれが勝手に生活している形にどんどん慣れていった。  一度だけ、どうして不倫をしたのかをストレートに訊いてみたことがある。義郎は、不安や寂しさを入院中のわたしに向けることができなかったので他にそういう対象を探した、と言った。さも当然の正当な理由のように。それを聞いて、拍子抜けした。その程度のことなのか、と思った。そんなことでわたしのプライドは踏みにじられたのか、と情けなく思った。  このままどうなっていくのだろう、と思いながら、気づいたら半年以上の月日が流れていた。  生活は相変わらずで、同じ家で寝起きをしてそれぞれ食事をして仕事に行って帰って来るけれど、ただそれだけで、夫婦関係はもう完全に破綻している。  このまま夫婦でいれば、義郎はともかく、自分は一生誰とも恋愛やセックスをしないで人生を終えることになるのだろう。二十代でそんな人生を認めるのは悲しいし切ない。誰かを愛したいし、愛されたい。  何ヶ月も夫とも誰とも触れ合わない時間が過ぎて、自分の身も心も枯れかけているのがわかる。でも、義郎と出来ないからと言って、他の男と関わるつもりはない。不倫はしたくない。  ただ、確実に飢えていた。寂しくて、ひたすらに苦しかった。
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