5 区切り

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5 区切り

 ナツコさんとの同居生活は、思いのほか上手くやれていた。  家事を分担し、生活費もちゃんと入れて、普段通りに出勤している。  ナツコさんの家に転がり込んだ次の日、長めに昼休みをもらって会社を抜けて自宅に戻り、義郎が居ない間に貴重品と少しの生活用品を持ち出した。  一応、リビングのテーブルの上に、ナツコさんの家に居候していることだけをメモした紙を置いた。関係は破綻していてもまだ書類上は家族なので、最低限の礼儀として報告だけはしておくべきだと思ったからだ。  会社で義郎に会うことはあっても、特に個人的な話をすることもなく、業務以外で接する機会はなかった。義郎はずいぶん憔悴した様子だったけれど、もうそれもわたしにはどうでもいい。  あの飲み会の店での出来事は、社内では一切噂になっていない。マコトがあの場を上手く収めてくれたのだろう。それまでと変わらない勤務環境に、自分たち夫婦の事情など会社にとっては取るに足らないことなのだと思い知る。でも今後もお互いが同じ職場で働き続けることを考えたら、それはそれで良かったのかも知れない。  別居して10日ほど経った頃、社内で義郎に呼び出された。ロビーで、ということは、密室でふたりきりで会うのを避けてくれたのだろう。  会ってすぐ、先日の飲み会での暴挙を詫びられた。そして、封筒を手渡された。予想はついた。中を確認して、納得する。  案の定、入っていたのは記名と押印の済んだ離婚届。  子どもがいない夫婦の離婚なんて簡単だ。当人同士の問題で済む。親や親族にはこの際黙っていてもらおう。書類を出して、荷物をまとめたら、それでおしまい。  慰謝料云々という可能性も考えたのだけど、例の写真も捨ててしまっているし、子供もいないし、何よりあの不貞行為事件からだいぶ月日が経ってわたしの気持ちも落ち着いてしまっている。今の義郎の態度も険悪なものではない。自分にも非があることは明らかで、それで先日の暴行未遂の被害届を出さないと決めた。仮面を外さずに結婚生活を送っていたことも、気まずくなってからあからさまに彼を拒絶していたことも、どう考えてもわたしが悪い。  これ以上面倒なことを掘り起こしたりせず、とにかくこのまま一刻も早く終わらせたい、その一心だった。  たくさんの人が行き交う会社のロビーで夫婦が密かに別れの取引を行っている絵は、客観的に見ればシュールで滑稽だ。でも、仮面女と不貞男の離婚なんてこのくらいでちょうどいい。  人生において大変な変化になるだろう相談をこうも冷静に無感情で行えたことに我ながら驚くけれど、いがみ合ったり罵り合ったりするよりはマシだろう。わたしたちは最後まで事務的に話し合いをした。それも、たかだか十数分のことで、本当に笑ってしまうほどあっけなかった。  特に分け合う財産もないし、取り合いになるような持ち物もない。要るものだけ持って、不要なものは処分を頼んで、最後は割とあっさりと穏やかに別れた。離婚届を受け取ってわずか1週間後、わたしは正式に義郎と暮らしていた家を出た。レンタカーを借りて、ほんの数箱の段ボールに詰め込んだ荷物を自分で運び出した。離婚届は義郎が出して来たと言った。  面と向かって挨拶をして、義郎は妊娠中の不貞を詫びて、わたしはその後のそっけなさを詫びた。幸せな時期もあったことを確認しあって、これからお互いに前を向いて生きて行こうと約束して、握手をして別れた。  離婚が成立してから、やっと自分の親に離婚の報告をした。当然、ものすごく驚いていたし、一言も相談せずに決行したことを咎められた。でも、もういい大人だ。報告はしても良かったのかも知れないが、相談は、必要ない。昔からとにかく厳しく口うるさい両親だったので、あえて何も伝えずに自分で全て終わらせた。  そもそも、わたしは社会人になってからというもの、ほとんど実家には立ち寄っていない。長女であるわたしに長女だからという理由だけでとにかく厳しく接していた両親は、二女である妹を異様なほど溺愛して甘やかしていて、それをわたしに隠さない人たちだった。それが嫌で早くに家を出た。妹も妹で、甘やかされていることに堂々と胡座をかいて、大人になってからも両親から厳しく当たられるわたしを遠巻きに見て優越感にひたっているようなところがあった。だから、わたしはもう必要以上に実家と関わるのをやめた。最低限の連絡だけを事後報告という形でしていて、その形を貫いてきていた。文句は言われたくない。楽しい親子ごっこは両親と妹でやればいいと思っている。  今回の離婚も、言いたい事は山ほどあるようだったけれどわたしが受け入れなかった。連絡を拒否して、無視した。そしていつの間にかうるさいほどの連絡はなくなった。  不思議なことに、出版社は離婚・再婚経験者が多い。なので、義郎との事は社内では特に大事としては扱われず、離婚後もそれまで通りに同じ会社で働くことが出来た。義郎と仕事場で会っても普通に挨拶をして、仕事が一緒になれば協力してこなす。自分でもびっくりするほど普通だった。  高川姓から旧姓の諏訪部に戻って数日経って、銀行口座や運転免許証などの名義変更に駆けずり回っている頃、義郎からメールが届いた。  内容の通りに確認すると、わたしの口座に100万円が振り込まれていた。メールには、家にあったオーディオや大型家具を売ったので、と書かれている。  義郎の唯一の趣味だったオーディオは、かなりマニアックで高価なものばかりを揃えていて、それだけでも何年もかけて相当のお金をつぎ込んで揃えたものだったはずだ。もちろん、大切に使っていた。それを売ってしまったというのは少なからずショックで、しかもその代金をわたしに回してくれるなんて、やはり彼なりに反省や謝罪の気持ちがあるのだろうと推測できて、ほんの少し心が痛んだ。  わたしが交際や結婚を受け入れなければ義郎は大好きなオーディオを手放さなくて済んだのかな、などと思ったりして、義郎の裏切り行為をあえて思い出して考えを相殺する。  メールを読んだことと入金を確認したことを伝えるために、義郎に電話をした。 「引っ越すことにしたんだけど、1人用の物件であれ全部入る部屋なかなかなくてさ」  義郎はそう言って笑った。多分、嘘だ。強がっている、と思う。でも彼が決めたことだし、そのことでお互いがここではっきりと区切りをつけられるのならと、彼の過去の言動のこともあって、お金は有り難く受け取ることにした。  嫌なことをたくさんしてきたのに最後の最後でこんなふうに優しい顔を見せるなんて、本当にズルい男だと思う。早くわたしのいないところで勝手に幸せになればいい。わたしもそうするから。  ナツコさんには、すぐに部屋を探して出ていくと何度も伝えているのに、このまま居ていいといつも反論されてしまう。  ナツコさんの家は居心地が良かった。広さもそうだけれど、内装や家具や雑貨がわたしの好みととても似ている。好きな音楽や映画も共通点がたくさんあって、生活空間の大部分が居心地が良い。  ただ、わたしにとってはナツコさんとの距離感だけが妙に落ち着かない。  ナツコさんはそのサバサバとした性格からか、女同士だから、と言って、割と遠慮なしな態度をとった。 「そんなカッコでうろつかないでよ」 「いいじゃない、女同士なんだから」  風呂上がりには薄いキャミソールとショーツだけで部屋をうろつくし、わたしが飲んでいる缶ビールをそのまま奪ってシェアしたりもした。酔って楽しくなるとスキンシップが増えたし、時々寂しいと言ってはわたしのベッドに潜り込んできたりもした。  その度にわたしは、自分の心身の動揺を悟られまいと身を固くし、ふたりの間の友情の濃さを必要以上に確認したし、アピールもした。  どうしてこんなにそわそわしてしまうのだろう、と思ったけれど、それを追求してはいけない気がして、それ以上は考えないようにした。  ある日、遅めの夕飯のあと、風呂上がりにふたりでビールを飲んだ流れでそのまま飲み続け、少し会話がディープになっていた。話のなりゆきで、ナツコさんの離婚の理由に話題が及ぶ。 「27ン時に仕事で知り合ったテレビ局勤務の人と結婚したんだけど」  悲壮感がほとんどないのは、それだけ彼女の中で吹っ切れていて過去の話だと決着がついているからだろう。 「そこそこ仲は良かったんだけど、子どもが出来なかったんだよね」  子ども、と聞いて、一瞬、心拍が上がったのがわかる。 「あたしはさ、仕事が好きだったから、子どものいない人生もアリだと思ったんだけどね。旦那が欲しがってさ。あぁ、元、旦那か。あと旦那の親もね。だから一応頑張ったんだけど、やっぱり出来なかった」  自分の境遇と比べてしまって、いたたまれない気持ちになる。 「で、旦那の親からも催促されて病院で検査してみたら、あたしは妊娠しにくい体質だったってわけ」  グラスを持つ手が僅かに震えて、自分で思っている以上に動揺しているのがわかる。 「でね、旦那と旦那の親がそれはそれはたいそう怒っちゃって、嫁失格だー、って。失格って、何様よねぇまったく」  これが、ナツコさんの離婚の真相。 「まぁね、子ども産めなきゃ結婚した意味がない、って思っちゃう人がいるのはわかる。でもまさか自分の旦那が、なんて思ってなかったわ」  やってらんないわ、とでも言いたげに、ナツコさんはグラスのお酒を飲み干す。そのグラスから結露の雫が落ちて、ナツコさんのルームパンツの膝に小さい沁みができた。じわじわと広がる小さな沁みを、わたしはぼんやりと眺めていた。 「それから、なんとなく居場所がなくなっちゃって、仕事に没頭してね。そのうちに旦那が不倫をして、不倫相手が妊娠したのを機に離婚した。で、慰謝料としてこのマンションをもらったので、そのまま住んでるの」  ナツコさんの話し方はどこか他人事のようで、昨夜見たドラマのあらすじを教えてもらっているような錯覚を覚えた。  ここまでの話を聞いてしまったら、自分も抱えているものを全て曝け出さなければフェアでない気がしてしまう。  わたしは、この家に来た時に話した大枠より少し踏み込んだ部分の話もした。 「ダメになっちゃったときは、本当に悲しくて……でも、裏切られてたことが判った時に、わたし……産まなくて済んでよかった、って思った」  子どもができなくて離婚に至ったナツコさんにしていい話でないことはわかっていた。でも、それをすることで自分自身を戒めるために、あえて話した。 「最低。本当に、最低だった」  絶対に見せたくなかった涙も、最後はどうにも隠せなくなっていた。 「槙ちゃん。高川くんに裏切られた時、ちゃんと泣いたの?」  突然、ナツコさんが怒っているような口調でわたしに問いかけた。 「なんでそんなに苦しそうに泣くの? もしかして、その時もちゃんと泣かなかったんじゃないの?」  そう問いつめられて、そうだったっけ、と思って記憶を辿る。  泣いてないかも知れない。義郎の不貞を知った時も、流産を喜んだ自分に幻滅した時も、離婚が決まった時も、全然泣いてない。わたしにも、義郎に対して全てを正直に話していなかった、という負い目があって、泣いたら負ける、という意味の分からないプレッシャーがあった。泣く権利すらないと思っていた。だから泣かずに今までやってきた。 「流産のこととか、流産に対する自分の思いとか、そっちじゃなくて。高川くんの浮気と、裏切られた自分のために、ちゃんと泣いた?」  さらに尋問されて、もう完全に堰が崩壊した。  苦しいに決まってる。形から入ったとはいえ、疑わずに信じると決めてそうし続けた想いをぶち壊されたのだから。全てを賭けて一生を捧げると誓った人に裏切られたのだから。悲しいに決まってる。本当は泣きたかった。声をあげて。怒り狂って、泣きわめいてやりたかった。でも、あの時は自分にも非があると思っていたので、泣いてはいけないと信じ切ってしまったのだ。 「しんどい時はちゃんと泣かないと」  ナツコさんの口調が急に雰囲気を変えて、ふわりとわたしの全身を包み込む。ナツコさんのこんなに優しい声を聴いたのは初めてだ。  それから、自分でもびっくりするくらい号泣した。小さな子どものように、声をあげてわんわん泣いた。鼻が詰まって、苦しくて、明日は目が腫れるな、と思ったけれどもう止められない。  ナツコさんも一緒に泣きながらわたしの懺悔を聞いてくれた。子どもが欲しくても出来なかったナツコさんに申し訳なくて、何度も謝った。 「謝るのはあたしにじゃなく、そんなふうに責め続けている自分にでしょ」  ナツコさんはそう言ってわたしを叱った。ふたりで泣いて、また飲んで、最後は酔いつぶれるようにそのままリビングで眠りに落ちた。  明け方、夢を見て目が覚めた。  酔いが覚める時間と相まって、妙にはっきりと覚醒した。首筋にじっとりと汗をかいている。下腹部に、重たい違和感。これは知っている感覚だ。また見てしまったのか。  思春期を過ぎた頃からずっと見続けているパターンの夢がある。セックスをする夢だ。相手はいつも、誰だかよくわからない。ただ、男性の時も女性の時もある。それだけはわかる。  男性との夢では、たいてい困る状況での焦るセックスをしていることが多い。誰かに見られそうな場所、バレたらヤバい相手、特定の相手ではないのにコンドームなしのセックス。そういう、しちゃダメなのに……と負い目を感じつつやめられない、という疲れる夢だ。  相手が女性の時でも、ほぼ確実に自分が相手に攻められている。相手にはペニスはないはずなのに、なぜか普通に男性からされるように攻められている夢だ。そういうところから、自分は同性相手でも攻める側には絶対に回らない、いわゆるバリネコというやつなのだな、と思い知る。  その類の夢を見て目覚めた時は、いつも下腹部が異様に重たくなっている。尿意とは違う、独特の張りつめ感。その重さが、罪悪感にも似た後ろめたさをわたしに背負わせるのだ。  今見た夢の相手は女性だった。  自分より大きな女性に組み敷かれていて、押し倒してきたくせに戸惑っているその人の唇を自分の唇で塞ぎ、ばかみたいに縋り付く。その人は、わたしを見て……わたしの目を、見つめていて……そうだ。あれは、ナツコさんだった。  わたしを組み敷いていた女性はナツコさんだ。困惑して、どうしたらいいかわからないと訴える夢の中のナツコさんに、わたしは強引にキスをした。身体の位置を入れ替えて、首筋を舐め、乳房を揉み、耳たぶを柔く噛んだ。なかなかわたしを受け入れようとしないナツコさんに手を焼いているうちに、彼女はぽろぽろと涙を流し始めた。熱くなる一方の身体とは裏腹に、涙を見せられて行き場を失い静かに萎えていく心。その温度差に戸惑っているうちに目が覚めた。  そして、わたしはようやく自覚する。  自分はナツコさんを好きなのだ。  ナツコさんが欲しいのだ、と。  ナツコさんはわたしより5つ年上で身長も15センチ以上高い。しっかりしていて頼れる姉御肌だが、反面、とても甘え上手だった。気が強くていつも気を張っているわたしに上手に甘えて、わたしの緊張を上手に解した。 「槙ちゃんは出会った時からずっとそうやってまわりを威嚇してたよね。ヒゲがビンビンに広がってる野良猫みたい」  数日前に一緒に飲んだ時、ふと、ナツコさんがわたしに言ったのを思い出す。 「昔飼ってた猫がね、真っ白でふわふわで、まあるちゃんっていう名前の女の子だったんだけど、元々は野良というか捨て猫でね。我が家に来たばかりの時は、それはそれはおヒゲをビンビンに前に出して警戒して。今の槙ちゃんは、そんな感じ」  そう言って、わたしの髪をそっと撫でて笑った。 「でもねぇ。そういう子がやっと気を許してくれた時の嬉しさって言ったら……ね。たまらんものがあるのよ。可愛がってて良かったな、諦めなくて良かったなーってね」  甘えることで、頼ることで、ナツコさんのそばにわたしの居場所を作ってくれている。わざと甘えて、あんたが居ないと生きていけない、的な空気を醸して、わたしにここに居ていい言い訳をくれる。ナツコさんのその気遣いに気付いていた。素直になれない自分のために、ナツコさんが意識的に甘えてくれているのだとわかった。  それが、どうしようもないほど心地よかった。  すぐに出ていくから、という約束で始まった同居生活だったのに、もうそこから出ていくことが難しくなっていた。ナツコさんの掌で踊らされているという事実は隠しようがなかったけれど、それに気付かないふりをしてでも今の生活を続けたい。  自分がナツコさんを好きだという気持ちが今後の同居の足枷となるなら、その気持ちは封印してでもこの生活を守りたい。どうしても、このままここに居たかった。
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