第三章 崩れゆく世界と孤独の運命

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第三章 崩れゆく世界と孤独の運命

 冷たい水が注がれていく様をぼんやりと眺め、アスカは深くため息をつく。  積み上がった氷が傾いて軽やかな音を鳴らし、縁についた水滴がグラスの下へするりと落ちる。差し出されたグラスを手に取り、アスカは冷たい水を一口だけ喉へ流し込んだ。  店の外は時間の割に暗く、冷たい雨が降り続いている。じめじめとした不快感は店の空調のおかげでいくらか和らいだが、陰鬱な気持ちは一向に晴れないままだ。  「あいつら、大丈夫なのか?」  手元を動かしながら、駿が不安げに問いかけてきた。  「クレイとミルは、少し安静にしてれば動けるようになるって言ってました。でも、シオンは……」  膝の上に置いた両手を、アスカは弱々しく握りしめる。  ロード・ダスクが去った直後、アスカたちはクレイの判断で駿の店へと駆け込んだ。鍵のかかった扉はミルの魔法で開けられ、駿は2階にあるベッドに寝かせた。  夜明け頃になって、駿が目覚めた。彼はアスカたちを見てひどく驚いていたが、クレイが事情を説明したおかげで、ある程度は呑み込めたらしかった。鍵を勝手に開けたことをミルに謝られても、仕方ないと許してくれた。  「……シオンのことは心配だけど、とりあえずアスカちゃんが無事でよかったよ」  「それを言うなら、駿さんだって」  「はは、そうだな。……次に会ったら、うんとサービスしてやんねーと」  駿は手のひらを見つめ、疲れを滲ませながら笑う。  アスカも同じ気持ちだった。もうすぐ丸一日経とうとしているというのに、シオンが一向に目覚める様子を見せないからだ。ある程度動けるようになったクレイとミルが懸命に回復させているようだが、ダメージが大きすぎて思うように進まないらしい。  人間ではない以上、病院も頼れない。無事を祈ることしかできないことが、アスカにはもどかしくてたまらない。  「シオンのことは、あの二人に任せるしかない。……それよりも、俺たちはどうすればいいんだろうな。俺とあんたら以外は、異変を認識してないみたいだし」  駿は窓の外に目を向ける。アスカも水を一口飲みながら背後を振り返り、薄暗い景色をぼんやりと眺めた。  店の前に、アスカの家が見える。  騎士たちの消耗が激しくろくに動けなかったため、アスカたちはやむを得ずこの店で一夜を明かした。だが目を覚ますと、離れた場所にあるはずのアスカの家が目の前に建っていたのだ。  それだけではなく、シオンが機獣と戦った公園や一部の住宅街がなくなっていた。まるで始めから、その土地自体が存在しなかったかのように。  「街を空間ごと消滅させて、残った場所と無理矢理くっつけるとはな。……一体どうなってやがんだよ」  クレイの説明を復唱しながら、駿が苛立ちを滲ませる。恐らくロード・ダスクと名乗った、あの人物の仕業だろうとクレイは言っていたが、詳しいことは彼らにも分からないらしい。    「私、これからどうすればいいんだろう」  か細い声で呟きながら、アスカはグラスを両手で包む。  「あの人が街消そうとしてるなら、何とかして止めたいけど……」  「クレイたちでも歯が立たないんじゃ、どうしようもないよなぁ……」  重苦しいため息混じりに、駿は天を仰ぐ。  シオンは今、父のベッドで眠っている。駿は自分のベッドで寝かせるよう言ってくれたが、それでは駿の寝床がなくなってしまうのでアスカが勧めたのだ。父の寝室を使うのはかなり気が引けたが、そんなことも言っていられない。    (シオン、大丈夫だよね……?)  考えれば考えるほど、不安が増す。  押し寄せる嫌な想像を何とか振り切ろうと、アスカはグラスを傾ける。冷たい水は心地よくて美味しいが、湧き上がる不安は拭えない。  「ほい」  悩むアスカの前へ、駿がおもむろにグラスを置いた。いつの間に作っていたのか、レモンの輪切りとミントをあしらったサイダーがしゅわしゅわと爽やかな音を奏でる。  アスカが目を丸くしていると、駿はぎこちないながらも笑ってみせた。  「暗いことばっか考えてると疲れるからな。これでちょっとでも元気出して、次のこと考えようぜ」  「……そう、ですね」  「ちなみに、それも試作品」  駿の探求心に関心しつつ、アスカはストローを咥えてサイダーを啜った。きりりと冷えたサイダーは甘さ控えめで、程よいレモンの酸味とミントの香りが気分を爽やかにしてくれる。  「……おいしいです」  心を覆っていた分厚い雲から、一筋の光が差し込んだような心地だ。正直な感想とともに、自然と笑顔がこぼれ出る。  「これからもっと蒸し暑くなってくるし、こういうすっきりした飲み物があると嬉しいですよね。もう少しだけ甘味があると、酸っぱいのが苦手な人でも飲みやすくなるかも……」  ふと我に返り、アスカはしまったと口を噤んだ。せっかく用意してくれたのに、偉そうな口を利いてしまったと罪悪感に襲われる。  「なるほど。よし、次はそうしてみるよ」  駿はにこりと笑い、エプロンのポケットからメモを取り出す。ボールペンをさらさらと走らせてメモをしまうと、ひとつ息を吐いてアスカを見つめた。  「前から思ってたんだけどさ。アスカちゃん、料理の才能あるんじゃないか?」  「そ、そんなこと……」  「俺も手伝ったとはいえ、初心者には難しいハンバーグをきれいに作れただろ? それに気づいてないかもしれないけど、ハンバーグ作ってるとき、すごくいい顔してたよ。心から楽しんでるって感じで、見てるこっちも嬉しかった」  楽しめることも才能のうち、と駿は持論を語る。たとえ素質があったとしても、心から打ち込めなければ続けることはできない、と。  「何もできないって思い込んでると、本当にできなくなっちまうんだよな。……アスカちゃんも、そんな感じなんじゃないか? その……親にあれこれ言われてさ」  かなり遠慮がちに言って、駿は目を逸らした。アスカはグラスの中で揺らめくミントを見つめながら、小さく頷く。  「シオンたちが初めてだったんです。私が着たい服を着させてくれて、似合うって言ってくれたの。料理も褒めてくれたし、一緒に本を読んだりするのも凄く楽しくて。皆でお買い物をしたのも……今まで感じたことないくらい、本当に楽しかった」  グラスを伝う冷たい雫が、アスカの手に落ちる。  「こんなこと、言っちゃ駄目ってわかってるけど……私、シオンたちといるほうが楽しいんです。たくさん話を聞いてくれて、駿さんとも引き合わせてくれて。……だから私、みんなの力になりたい。何ができるか分からないけど、私を受け入れてくれる人たちを、助けてあげたいって思うんです」  自分は酷い子どもだ、とアスカは思う。両親の失踪を、少しずつだが受け入れてしまっているのだから。  それどころか、今のアスカは両親が戻ってくることを恐れている。  両親が戻れば、シオンたちはアスカのもとから去ってしまうかもしれない。駿とこうして話すことも、できなくなってしまうだろう。  みんな会えなくなるくらいなら、親なんて戻らなくていい。今のアスカは、本気でそう思ってしまっていた。  「……何があっても、自分のことは大切にしてくれよ。アスカちゃんに何かあったら、シオンたちだけじゃなくて俺も悲しいからさ」  アスカは静かに、しかし大きく頷いた。
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