小さな誇り

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小さな誇り

 先週から降り出した雨は、一向に止む気配がない。憂鬱な気分を抱えたまま、アスカは教室を後にする。  皆が可愛らしい色やデザインの傘をさしている中、味気ないビニール傘を手にとぼとぼと歩く。  数年前に親から与えられた安価な傘は、アスカの物持ちの良さのせいかまだあまり傷んでいない。おかげで両親が失踪した今でも替え時が見つからず、アスカを複雑な気分にさせていた。  他の生徒たちとすれ違うたび、楽しげな会話がアスカの心を逆撫でする。隣町のショッピングモール、流行っているらしい歌手やマンガ。彼らが口にする全てが、ここではない別の世界の話のようだ。  自分が出来の悪い子だから遊ぶことを許されないのだと、少し前までは思っていた。だがシオンたちと過ごした時間や駿の言葉が、アスカの心を絶え間なく揺さぶっている。  (もう、何も分かんないよ……)  誰が正しくて、誰が間違っているのか。シオンたちはアスカに寄り添ってくれるが、それすらも正しいのか分からない。長年両親を信じてきたというのに、今更考えを変えるのは容易いことではない。  深くため息をつきながら、アスカは校門をくぐり抜ける。  「アスカ」  不意に呼ばれて脇を見ると、シオンが大きな黒い傘を差して立っていた。父が使っていたものを持ってきたのだろうと、アスカはすぐに察しがついた。  「迎えに来たんだ。少し話したいと思って。……駄目かな?」  「ううん、大丈夫」  アスカはシオンの側へ歩み寄る。周囲の目が気になり、顔を伏せて早足で学校を後にした。  レンガ調のブロックで彩られた歩道を歩きながら、シオンは神妙な面持ちで口を開いた。  「昨夜、三人で今後のことを話し合った。ロード・ダスクへの対抗策はまとまらなかったけど、まずはできることをきちんとやっていこうってことになって。ひとまずは、機獣の襲撃に備えて警戒を強めようって話になった」  シオンがたどたどしく言葉を紡ぐたび、アスカは不安を感じずにはいられなかった。ここ数日、シオンたちが外出する頻度が増えていることはアスカも十分認識している。  「……怖くないの?」  ぽつりと尋ねたアスカを、シオンは不思議そうに見つめて首を傾げた。  「あんなに酷い目に遭わされたのに、何でまた立ち向かおうって思えるの?」  「何でって……それが僕たちの使命だから――」  「そうじゃない!!」  アスカは思わず声を荒げた。力なく浮かべていたシオンの笑みが、驚きとともに儚く消える。  「……私、怖かった。みんながいなくなっちゃうって思ったら、怖くて、苦しかった。自分がぐちゃぐちゃになって、どうにかなっちゃいそうだった」  アスカはシオンの袖を掴んだ。目の奥から熱いものがこみ上げて、視界をぼやけさせていく。  「シオンたちは何とも思ってないかもしれないけど、私にとってはみんな大切な人なの。だから、少しは自分のことも大事にしてよ。私、もう一人になりたくない……!」  袖を掴む手に力がこもる。腹の底から声を絞り出すと、目に滲んでいたものが一気に溢れ出して頬を伝った。  隣に立つ少年が、人ではないことは理解している。食事も摂らず、眠りもせず、戦いとなれば常識からかけ離れた動きを見せることも。  だが、それ以外はアスカたち人間と変わらない。言葉を交わし、笑ったり怒ったりと表情を変え、孤独だったアスカを思いやってくれた。怖くて踏み出せなかった世界へ、連れ出してくれたのだ。  作られた存在だから、何だというのだろう。共に過ごした時間に比べれば、人でないことなど些細なことだ。  だからこそ、危ないことはして欲しくない。  すすり泣くアスカから目を逸らし、シオンはしばらくの間歩き続けた。やがて静かな住宅地に入ると、そっと手を伸ばしてアスカの手に触れた。  「魔女は……ロード・ダスクは、いずれ現実世界も壊しに来る。そうなれば君だけじゃなく、今生きている全ての生物が跡形もなく消えてしまう。それだけは、絶対に防がなくちゃいけない。だって、僕たちはそのために生まれてきたんだこら」  シオンの手が、アスカの手を静かに引き剥がす。  静かに、淡々と話すシオンの言葉が、アスカの心に冷たく滲みる。悲しくて、辛い気持ちを吐き出しかけたアスカは、シオンの顔を見て言葉を呑み込んだ。  「戦いに敗れたら、僕たちはこの身体を喪って夢の世界に還される。みんなのことも、みんなと過ごしたことも残らず忘れて、今ここにいる“シオン”には二度と戻れない」  シオンの瞳が、揺れ動く。風に吹かれた水面のように、光が細かく散っている。  「……今は、それが怖い。君のことも、クレイやミルと過ごした日々も、自分の存在も、全て消えてしまうのが、恐ろしくて仕方ないんだ。……これが、悲しいってことなのかな」  アスカはシオンの手を握った。人ではないせいか、それとも雨に濡れているせいか、微かな冷たさが手のひらを通して伝わってくる。  シオンも、アスカの手を握り返した。  アスカの胸の内で、堪らえていた感情が溢れ出す。思わずシオンの胸へ身を委ねたいと思い、僅かに身を傾けた時だった。
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