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翌日。
教室に入ると、アスカの目は自然と紗理奈に吸い寄せられる。
紗理奈は一人、静かに本を読んでいた。手指の間から見える文字だけを見ても、難しい本だということはすぐに理解できた。
(集中してる……どうしよう)
ハンカチの入った小袋を手に、アスカは悩んだ。すぐにでも返したいが、真剣に読んでいるところを邪魔するのも気が引ける。
(でも、今を逃したらいつ渡せるか分かんないし……)
紗理奈とはまだ、あまり話したことがない。何事にもきっちりとしている紗理奈から見れば、自分のようなおどおどした人間は嫌いだろうとアスカは思う。
返して、すぐに立ち去ればいい。何度も自分に言い聞かせ、アスカは紗理奈の机へと歩み寄る。
「……あの」
緊張しつつも声を絞り出すと、紗理奈は本を閉じてアスカを見上げた。
「こ、これ……」
固くなった体を奮い立たせ、手にしていたハンカチを差し出すと、紗理奈の目が僅かに見開かれた。
「その、すぐに返そうと思ったんだけど、汚れてたから洗ってきたの。ほら、昨日公園で――」
「わあぁ!?」
紗理奈が声を殺しつつ、悲鳴に近い叫びを上げた。
「いい? 昨日のこと、絶対に人には言わないで。絶っ対に、言っちゃ駄目だからね?」
声を抑えながらも、早口でまくし立てるように紗理奈は言った。やや圧を感じる雰囲気に、アスカは思わず一歩後ずさる。
「ご、ごめん……」
紗理奈に背を向け、その場から立ち去ろうとしたアスカの背に何かが触れた。振り返ったアスカの目に、伸ばした腕を引っ込める紗理奈の姿が映る。
「……届けてくれてありがとう」
小さな声で言って、紗理奈はハンカチを机の中にしまった。姿勢を正して本を手に取り、何事もなかったかのようにページをめくる。だが、その指先が微かに震えているのをアスカは見逃さなかった。
(北村さん、踊るの好きなのかな……?)
アスカの脳内に、駿と食事をしたときの会話が蘇る。
両親の応援に励まされ、自分の店を持つという夢を叶えた駿。料理について語る彼の表情はとても生き生きとしていて、自分の能力に対する確固たる自信が感じられた。
紗理奈は、違うのだろうか。だがアスカにとって紗理奈の踊りは、自分には到底真似できない洗練されたものにしか見えなかった。
(もっと、自信を持っていいんじゃないかな)
何の取り柄もない自分とは違う。学校だけでなく、寂れた公園でも星のように輝ける。そんな紗理奈が、アスカは羨ましい。
「あの……うまく言えないけど、昨日の北村さんかっこよかったし、綺麗だったよ」
周りに聞こえないように声を押し殺し、アスカは正直な気持ちを告げた。紗理奈は目を丸くし、持っていた本を机に伏せる。
綺麗な目が、アスカを見つめている。アスカは視線に耐えられなくなって、逃げるように自分の机へと向かった。
「……言っちゃった」
誰にも聞こえないよう、ごく小さな声でアスカは呟く。教科書を掴む手が、微かに震えていた。
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