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「ただいま」
重いドアを開け、薄暗い家の中で靴を脱ぐ。姿の見えない母に向けた言葉は、淀んだ空気の中に溶けて消えた。
玄関の隅には、母の靴がある。返事がないのはいつものことだが、だからといってそのまま部屋に戻れば母の機嫌を損ねてしまう。アスカは心を落ち着けてから、微かに人の声がするリビングを覗き込んだ。
案の定、母はテレビを観ていた。後ろを向いているため顔は見えないが、まるで魂を奪われたかのように液晶を見つめる姿はいつもと変わらない。
テレビかスマホに夢中で、自分に気付いていないかもしれない。
母はちょっとしたことで、すぐ火がついたように怒り出す。挨拶が聞こえなかったというだけで、薄情者と罵られたくはない。
「ただいま」
アスカはもう一度、先ほどより少し大きな声で呼びかけた。途端に母が唸り声にも似た声を漏らし、アスカはびくりと身体を震わせる。
「聞こえてる」
何に苛立っているのか、母は舌打ちをしながらぶっきらぼうに言った。手に持ったスマホから溢れる光が、母の顔を煌々と照らし出している。
靴が乱れていることに気付き、アスカは慌てて揃えに行く。母に見つかったら、何を言われるか分からない。
足音を立てないようにすり足で廊下を駆け、逃げるように部屋へと飛び込んだ。
自分の匂いが染みついた空気を吸うと、少しだけ心が落ち着いた。詰めていた空気をゆっくりと吐き出し足を踏み出すと、かさりと乾いた感触が足先に触れる。
朝にはなかったはずの紙袋が、無造作に床へと置かれていた。開いた口からは、タグのついたジーパンやシャツが見える。
アスカがの服は、いつも母が買ってくる。どれも飾り気のないシンプルなもので、アスカの好きな可愛いものとは程遠い。
それでも、母に可愛い服をねだる気はない。ねだったところで無駄だと、アスカは身をもって知っているからだ。
小学生の頃、一度だけ母に可愛い服が欲しいと言ったことがあった。
淡いピンク色の、フリルやリボンをふんだんにあしらったワンピースだった。童話のお姫様が来ていそうな可愛らしいデザインが、幼いアスカの心を掴んで離さなかった。
勇気を振り絞って母に伝えると、「駄目」という短すぎる言葉が返ってきた。それでも諦めきれず食い下がると、母はまるで醜いものでも見るかのような目でアスカを見下ろした。
「それ以上我儘言うなら置いてくから」
冷たく、抑揚のない声だった。このままでは本当に置いて行かれてしまうと思ったアスカは食い下がるのを止め、泣きたい気持ちを堪えて母のあとをついて行った。振り返るたびに遠ざかるワンピースが、アスカの胸を強く強く絞めつけた。
それ以来、アスカは母が買ってきた服を着続けている。
思い出すほど惨めな気持ちになって、アスカは紙袋から離れる。ベッドの脇に荷物を置き、ベッドの上へ身を投げて布団の中へ潜り込む。帰宅してすぐに宿題を済ませるつもりでいたが、今はどうにも気が乗らない。
思っていた以上に疲れていたのか、あっという間に眠くなる。深い沼の底へ吸い込まれるように、アスカは眠りの中へと落ちていった。
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