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33 村上 陽司は迎え入れる
オートロックを通過し、部屋のチャイムを鳴らすと、暫くしてドアが開いた。
「よく来たな。」
現れたのは勿論、この部屋の主。黒いゆるっとしたニットセーターを着て、前髪の下りたラフなスタイルの陽司だ。
彼は村上を見て、それから少し目を眇めて眩しげに南井を見た。
「…どうぞ。」
そう言って中へ招き入れられ、村上と南井はちらりと視線を交わしてから、玄関に足を踏み入れた。
「お邪魔します。」
一人住まいの男の部屋というにはと言うか、だからと言うべきなのか。
陽司のマンションは、玄関内にもリビングにも、全く生活感が無かった。
新築マンションのギャラリーですら、もう少しは生活感を感じさせるというものだ。
本当に無機質な空間だった。
敷かれたラグの上にローテーブル、ソファ、テレビだけが辛うじてあるが、リモコン以外の小物は一切無い。勿論、観葉植物やクッションなんてものも無かった。
只、最低限必要なものだけを、ポンと配置しただけの殺伐とした部屋。
見えているカウンターキッチンにも、冷蔵庫や食器棚は辛うじてあるが、使用している様子は無い。
そう言えば自分が高校進学の折に初めて来た日もこんな感じだったなと、村上は思い出した。
『掃除が苦手だから物は置かない。』
元々家事の不得手な陽司はよくそう言っていた。
だから週二でハウスキーパーを入れていると。
それでも一緒に住んだ高校三年間は村上が家事を請け負っていたが、村上が出て行き、元のように外注に頼っているのだろう。
そうとわかるくらいに、よく清掃されている。
「座ってくれ。…コーヒーで良いか?和志も?」
そう言ってキッチンに立った陽司に、村上と南井はソファに腰を下ろしながら頷いた。
陽司は卓上ポットで湯を沸かした後、トレイに3人分のコーヒーを載せて歩いて来た。
「インスタントですまないな。凝る方じゃないもんで。」
陽司はソファの前のローテーブルにそれを載せ、それぞれの前にソーサー付きのカップを置いた。苦いものが苦手な村上の前には、ちゃんと砂糖の容器が置かれた。
ソーサーにはそれぞれスティックタイプのクリームが載っていて、南井はそれを入れてスプーンで2、3度掻き回す。褐色の液体が見る間に柔らかく色を変えた。
南井は いただきます、と言ってカップを口に運ぶ。
何時も飲むより少し濃いと感じるのは、陽司が日常的にこの濃さで飲んでいるからなのだろうか。
数十秒の間、コーヒーの香りと沈黙だけが流れた。
「…体、大丈夫か?」
口火を切ったのは、陽司だった。
「…今日はもう大丈夫だ。昨日は済まなかったな。」
そう返した南井は、思いの外自分が落ち着いている事に安心していた。
だが、目を上げると陽司と視線が合って、瞬間的に17のあの日にトリップしたような感覚に陥った。
でも、直ぐに我に返る。
そして、まじまじと陽司の顔を見た。
当然の事ながら、大人の男の顔になっている。
10代のあの頃は、この整った顔立ちにやんちゃな性格が顔に出ていた。向こう見ずで勝ち気で危なっかしくて…。それでもそれが魅力的だった。
けれどそれは既になりを潜めて、落ち着いた、どこか憂いと渋みを感じる顔つきになっている。
20年。
赤ん坊が一人前に成人する年月だ。
南井の隣に座る和志のように。
陽司もまた、南井を見つめていた。
髪の先から、爪先迄、食い入るように。変わらぬ優しげな顔立ち、優美な肩の線、華奢な細い指。
あの日恋をした幼馴染みの少年は、確かに元々可愛い顔はしていたが、Ωだとはいえ、こんなにも美麗な男になるものなのだろうか。
同じだけ歳を重ねた筈なのに、南井はまるで陽司よりも随分若く見える。
なのに年相応の艶は増して…。
思わず喉が鳴ったのは、αならば仕方がないように思える。
だが、南井の傍にいた村上はそれを許さなかった。
殺意に近い圧の篭った、刺すような目を向けられて、陽司は背筋にひやりと悪寒を感じる。
「義希さんの心配も面倒も僕の仕事だから。」
敵意の篭った硬質な声で息子に言われ、陽司は黙り込んだ。
自分のΩに対する独占欲を、和志は正しく発揮している。
かつての陽司がそれをきちんと南井に持つ事が出来ていたら、今日のこの状況は無かった事に違いなかった。
そもそも和志が存在していないだろう。
それを思うと陽司は複雑な気分だ。
父と息子の険悪な空気を察してか、南井が言葉を発した。
「俺、和志と付き合ってる。」
それを聞いた陽司は、少し複雑そうな表情を浮かべ、それでも何も言わず、ああ とだけ答えた。だが、
「僕と義希さんは運命の番なんだ。」
村上がそう告げた瞬間、陽司は弾かれたように顔を上げて村上の顔を凝視した。
そして、数秒を経て、南井に視線を移した。
「…本当、なのか?」
南井はその問いに頷いた。
それを見た陽司は、呆けたような表情になり、今度は南井を凝視した。
「お前に捨てられて、」
南井の言葉に、肩を震わせる陽司。
それを確認して、南井はそのまま続ける。
「その後、大変だったよ。何日も高熱が続いて、体の中の血液とか色んなものが掻き混ぜられるように苦しかった。」
「…。」
「思えば、あれが自然解除の現象なんだろうな。
番専用に書き換えられていたものが、元に戻る為の。」
「…すまない…。」
あの時、独りにされた南井が味わった地獄を、陽司はこれから知らされる。
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