3 南井 義希は出会ってしまった

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3 南井 義希は出会ってしまった

その日、部下を伴って参加したビジネスランチから帰社した時、南井は社の入っているビルのエントランスで首を傾げた。 久々に心地好いと思える匂いに出会ったからだ。 αの残り香。 多分、若い。 少し懐かしいような、何か遠い記憶を思い起こしてしまいそうな匂い。 珍しいなと思った。 αの匂いがではなく、南井がこんなにも明瞭にαの匂いを嗅ぎ取れるのが、という意味で。 昔体験した番の自動解除の数少ない弊害に、αに対する嗅覚の低下があった。 正直、何の問題も無い。 そもそもαが匂いを出す場面というのは、Ωの発情臭に呼応してる(つまり、セックスしたい)時だったり、マウントの取り合いだったりとロクな時じゃない。たまに発現したてで匂いの調整が下手という場合もあるが、とにかく誰とも番う予定の無い南井にはもう無縁の話だ。 南井自身の匂いも薄れているだろうし、反応される事もそうないだろうと思った。 そうして今日迄20年。 本当に何の問題も無く生きてきた。何なら全く感知出来なくて、消失したのかと思っていたくらいだ。 まあ、日常生活における嗅覚には全く影響ないからそれでも良かったのだが。 それにしても、こんなにも久々に嗅覚が戻って来たのは何故だろう、と不思議に思ったが、オフィスに戻ると早速仕事に取り掛からなければならなかったので、じき忘れてしまった。 次にその匂いに遭遇したのは、それから二週間ばかり経ったかどうかという頃。 今度は退社して社のビルから少し歩いたところで気がついた。 匂いの主は僅かに南井の先を歩いていたのだろうか。 思わず足を止めてキョロキョロ見回したが、周りを行き交う人々は、そんな南井をチラとは見ていくが、匂いの主に該当しそうな人間はいない。 妙な事だ、と南井はまた首を傾げた。 こんな自分の鼻に到達するくらいだから、他にも気にしている人がいるのでは…とも思ったが、それも居ないよう。 気にしても仕方ないか、と南井はまた、そのまま駅に向かう家路を急いだ。 匂いの事はこの時も直ぐに忘れた。 二度あることは三度ある、とはよく聞く言葉だ。 三度目は、それから更に一ヶ月も経った頃。 今度は社のビルのエレベーターの中だった。 前回と同じ、久々の定時上がりの時だ。 階層ボタンを押して、開いたエレベーターに乗り込んだ瞬間から、強烈に匂った。 ぶわり、と濃厚な匂いに咄嗟に鼻を覆ったのに間に合わず、鼻奥と脳髄が瞬時に痺れた。 心臓がバクバクと脈打ち出して、膝が震えた。 一緒に乗り合わせていた中に混ざっていた部下達が心配して支えてくれたので、辛うじて倒れずに済んだが、それが無ければ南井はきっと気を失っていた。 20年もの間、その匂いから遠ざかっていた南井の体は、ダイレクトなそれに耐えられなかったのだ。 一階ロビーに着いて、ソファに座らされ、数人の社員に介抱されて、ありがたいと思えど、周りの注目に少し気恥しくなった。 ネクタイを緩めてくれながら、働き過ぎですよ、と言って何かの資料でも入っていそうな封筒で仰いでくれる部下に、それ曲げたりしても大丈夫なやつだろうな?と心の中でヒヤヒヤしながら、考えた。 さっきのエレベーターに、あの匂いの主のαが乗り合わせていたのだ。 あれはもう、残り香なんてものではなかった、と。 10分程もそうされていると、気分が落ち着いて来た。 心配顔の部下達に、手間と時間を取らせた事を詫びて、もう大丈夫だから、と帰宅を促した。 部下の一人が、送って行くと言うのを苦笑して断り、立ち上がった時 少し離れた所に立って南井を見ている人物に気づいた。 それが匂いの主だと直感した。 主は、背の高い大学生風の若い男だった。 視線がかち合う。 自分に向けてくる青年の視線の強さに、南井は少し畏怖を感じたが、ざっくりと彼を観察する余裕も戻ってきた。 彼はどういう人で、何故此処にいるのだろうか。 ジャケットは来ているがスーツではない彼は、何処かの社員には見えない。 何処かの社のインターンだろうか、と南井は思った。 南井の会社にも、そんな学生が数人いる。 考えている間に、彼が南井に向かって歩いて来るのに気づき、少し慌てた。 また匂いを嗅ぐ事になったら、同じように倒れてしまうかもしれない、と思ったのだ。 けれど、それは杞憂だった。 南井の前に立った彼からは、以前嗅いだ残り香程度の匂いしか感じられなかったからだ。 近距離で絡んだ視線の持つ意味がわからず、南井は戸惑った。 青年の顔立ちはかなり整っていて、黒曜石のような眼差しの強さには、こちらが気後れする程だ。 不意に。 「貴方だったんですね。」 目の前の青年が、南井に向かってそう言った。 「え…?」 南井は、匂いの主が青年だったのかと思っていた事を見透かされたのかと思った。 なのに、貴方だったのかとはどういう意味なんだろう。 更に青年の唇は言葉を紡ごうとしているように見えた。 彼を見ていると、何年も忘れていた何かが、ゆっくりとゆっくりと目覚めていくような、そんな不思議な感覚に見舞われて、南井は戸惑う。 ずくり、と 下腹が疼いた気がした。
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