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35 村上 陽司は語り出す
「俺達が番になって、義希もそうだろうけど、勿論俺も、他のΩの匂いなんか感知しなくなってた。
流石の俺も、遊び仲間も全部切って。
せっかく番になれたんだから、真面目になろうって、そう思ってた。
義希しか見てなかった。本当だ。
それが、あの時…、」
一緒に歩いていた時、ふわっと鼻を擽られたあの香り。
最初は気の所為かと思った。だがそれは、徐々に近付いて来て…、陽司は周囲を見回して探した。
そして、ある少女と目が合った。
直感した。彼女だと。
番がいても、ごく稀に他の匂いが認識できる場合がある。運命の番だ。
運命の番だけが、あらゆる全てを凌駕できる。
彼女を見た瞬間、陽司は衝動的に走り出してしまったのだ。その時頭の中からは他の全てが消し飛び、只々、本能に突き動かされていた。
彼女の手を取り走って、路地に入って見つめあった。
互いに確信した。鼻の奥が蕩けそうで、体の芯の部分がじんじんと熱く滾り出した。
今度は逆に手を引かれ、彼女の家に行った。昼間の事で、家族は不在で、彼女の部屋は三階だった。
そこは一人でヒートに耐える娘の為に、両親が用意した隔離部屋だった。彼女はヒートが始まる前に、買い置きを切らしていた経口補水液を急いで買いに出たところで陽司に出会ったのだった。
閉め切られた部屋の中に入ると彼女の匂いが濃厚に鼻を突いた。
くらりと目眩がして、陽司は彼女を抱きしめた。
理性はとうに飛んでいたが、彼女の唇に触れた時、微かに違和感を感じた。
ーー何時もと違う…ーー
脳裏を過ぎる面影があった。誰かの、耳触りの良い声に呼ばれたような気がした。
けれど陽司は目を閉じた。
目の前の運命も、欲しかった。
(あいつは待っていてくれる…。)
それは根拠の無い、虫の良い期待だったが、それにも陽司は目を瞑った。
彼女と体を繋いだ時、激情に任せて、先の事など考えられなかった。
強い快感に支配されていた。自分は世にも稀なる運命の番を得たのだと、妙な万能感があった。
彼女の細く白いうなじに歯を立てた瞬間、義希のうなじを噛んだあの時の事が、鮮やかに思い出されたのに。
陽司は押し寄せてくる快楽に屈して、もう犬歯を引っ込める事が出来なかった…。
流石は運命の相手というべきか、彼女とは数分経たずに番が成立した。
咬印の定着の速さは凄まじく、彼女のヒートが終わって2人で正気に返った時、一緒に真っ青になった。
運命の番だからと言って、体の求める交合が終わってしまえば、ろくに話した事もない他人だ。
恋人を裏切ってしまったと泣く彼女に、何と声をかけたら良いのかわからない。
陽司だって泣きたかった。義希に何と言えば良い?合わせる顔も、もう無い。
せめてあの時、噛む事を我慢できてさえいたなら…。
後悔に苛まれて、思考がままならなかった。
こんな事、謝って済む筈がない。こっちで番が成立してしまってたら、義希とはどうなるのか。本当に自然解除されたのだろうか。
そんな、まさか、そんな。
全身が震えた。
2日間篭っていた彼女の部屋から出て、その両親に激怒された時。陽司の両親迄呼ばれて、同じように叱責され、父に殴り飛ばされた時。
陽司はもう、自暴自棄になっていた。
皆が陽司を悪いと言う。
αである陽司が我慢しなければならなかったと言って、責める。
よくもまあそんな事を簡単に言えるものだと思った。
皆はあの時の陽司の状況を体験していないから言えるのだ。
あんなの、誰だって我慢できる筈がないのに。匂いを出して誘惑した彼女だって責任があるのに、と。
不貞腐れて、自分は悪くないと言って開き直った陽司を、皆は更に呆れ果てた目で見た。
新たに番になって目の前にいる女は、裏切ってしまった恋人を思い、罪悪感に泣くばかり。
陽司だって泣きたい。合わせる顔は無くても、本当は義希に会って謝りたい。
謝り倒して、土下座して、今の状況が変えられるものなら…。
けれど、もう全てが遅かった。
運命の番は成立してしまったし、彼女の緊急避妊薬(アフターピル)は間に合わなかった。
ヒート中の受胎率はほぼ100%。間に合わなければ子供は確実に出来ている。
出来ていれば彼女は産まざるを得ないと言った。
陽司に逃げ道は無かった。
不可抗力で一緒に暮らすようになり、彼女と少しずつ話をするようになった。
『わたし、みそっかすなの。』
彼女は何度も口癖のようにそう言った。
αである父と、Ωである母の間に産まれて、確率的にはαであるのが殆どの筈なのに、よりによって残りの一割を引いて、彼女は生まれてきてしまった。
だからと言って両親が、彼女に落胆した訳ではなく、普通以上に大切に育ててもらったという。
しかし、両親以外の親戚連中は違った。
彼女は両親には見えない場所で、ハズレと呼ばれた。
否定的な言葉に傷つけられる度、彼女の自己肯定感は低く削られていき、両親に大切にされ、愛情を感じる程に、そんな価値の無い自分に失望していった。
ーーどうせΩなのに。そんなにされる価値なんて無いのに…。ーー
一部の悪意ある差別主義者達から植え付けられた、誤った認識で、彼女はどんどん卑屈になっていったのだ。
彼女はΩである自分を憎んでいた。
だが、そんな彼女を愛してくれるαが現れた。
一途に彼女を守ろうとしてくれる、素晴らしいαが。
彼女が優しく素敵な彼を好きになるのに、時間はかからなかった。
彼女を大切に思って、高校を卒業する迄はキスだけで我慢すると誓ってくれた。誠意のある人だった。彼と番になって、やっと誰の目も憚らずに幸せになれると夢見ていた。
彼女の両親も喜んで、その日を心待ちにしていた。
そんな中、陽司と出会ってしまったあの日は、彼女にとっても悪夢の始まりでしかなかったのだ。
ロマンティックな事など一つも無かった。
陽司にも彼女にも、周りの人間にも。
"運命"は、招かれざる客でしかなかったのだ。
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