ししおどし

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 あれはわたしが小学三年生かそこらのときだったと思います。  当時、学校が夏休みになると、毎年母に連れられて、田舎のおばあちゃんの家に二週間ほど泊まりにいっていました。  最初の日こそ、母も一緒に泊まってくれますが、翌日には都会に帰っていきます。  小学校が夏休みの間も、父は会社がありますから、これはいたしかたのないことでした。  今思えば、その間だけでも夏休みの子どものお守りから解放されたいという、両親の考えがあったのでしょう。  娘を預けて、自分たちは羽を伸ばしたい。同時におばあちゃんにも喜ばれるという、一石二鳥の策略だったのかもしれません。  でも、わたしがいくことで一人暮らしのおばあちゃんを喜ばせてあげられるというのは、自分がなにか素敵な贈り物にでもなったかのようで、誇らしい気持ちもありました。  まったくあざとい話ですが、子どもながらにちゃんと自分の価値をわかっていました。  いえ、子どもというのはみんなそうなのだと、わたしは思います。  久しぶりに会えて嬉しいという、純朴な子どもを演じていれば、優しくもしてもらえるし、おばあちゃんの役に立たねばならないという、変な話ですが、使命感のようなものすら、うっすらと感じていたのでありました。  実際に、おばあちゃんのことは大好きでした。  抱きつくと、ふだんは嗅ぐことのない老人のにおいがするのも、なんだか心がほっとするような、自分の故郷ではないけれど、どこか身を寄せる場所に帰ってきたような気がして、嫌とは思われなかったのです。  おばあちゃんの家は草深い田舎にあって、家のすぐ裏には山があるようなところです。  都会育ちのわたしにとっては、そんなに刺激的なこともないのですが、持ってきた夏休みの宿題をやっているうちに、なんとなく日は過ぎていきます。  井戸水で冷やしたスイカを縁側で食べたり、近所の子を呼んで庭先で花火をしたりと、田舎らしいことをそれなりに楽しみながら、母が迎えにやってくる日を待つのでした。  近所の子どもたちとは、それほど仲はよくありませんでした。よくセミ取りや釣りにいっているようでしたが、彼らがわたしを誘ってくれることはありませんでした。  きっと都会から変なのがやってきて、警戒していたのでしょう。  私はよく一人で、彼らがヤゴ取りやザリガニ釣りに夢中になっているのを、小川にかかる橋の上からぼんやりと眺めては通り過ぎたものです。  幼い恋心を抱くような男の子も現れず、母に連れられて帰っていくのを、見送りにくるような子もいませんでした。  おばあちゃんの家というのは、よく風が通り抜ける純日本風の家屋です。  築何十年だか知りませんが、当時にしてすでに相当古い家でした。  まわりに店などもなく、隣の家まで百メートル以上も離れているような、寂しいところです。  都会のように、人が立てるような音もなく、昼間は山鳥のさえずりや風の音が聞こえてくるばかり。  夕方、カラスの大合唱が終われば、あとはひっそりとした夜がやってきます。  まるで世界のすべてが寝静まって、生きているものなどどこにもいないかのような、そんな闇の世界です。  田舎の夜というのは、本当に闇しかないのだなと、子ども心にそう思われました。  見上げれば、満点の星空。乳を垂れ流したみたいな天の川が白く煙っています。  でもそれは、星座の世界が親しみを持って語りかけてくれるというより、遠く遠く、手の届かない高みから、ものもいわずにじっと見下ろされているような、そんな冷たい視線に感じられたのです。  ときおり山のほうから、ギャーン、ギャーンという、獣の鳴き声が聞こえてきました。  けれど、それはとても生き物が出す声のようには思われません。きっと山の奥深くに、地獄へと通じる穴が空いていて、そこから亡者たちのうめき声が聞こえてくるのではないかと、そんな想像をしながら眠りについていたものです。  当然のことながら、夜中にトイレにいくのは、とても恐ろしいことでした。  なるべくおばあちゃんがまで起きているうちに早めに済ませ、すぐに布団に入ってしまいます。  そしてそのまま朝になっていることを祈ります。  でも、よくしてもらえて、スイカだ、ジュースだと、いろいろもらえるものですから、どうしてもおしっこが近くなって、目覚めてしまいがちです。  おまけに、昼間おばあちゃんが話してくれる物語にも、私を怖がらせる原因がありました。  もしかすると、少し茶目っ気のあるおばあちゃんでしたので、ちょっと私をからかっていたのかもしれません。  あの時代の年寄りの常として、戦争中の話をするとともに、おばあちゃんは狐狸妖怪の類が出てくるような話が好きでした。  昼間、聞いている分には、そういう話は面白く聞くことができます。  戦争の話は、聞いていて胸を痛めることもあって、あまり積極的に聞きたいと思うものではありませんでした。  ただ、おばあちゃんに気分良くしてもらいたいのと、子ども心に、これはどうしても聞いておかなければならない大事なことなのだという意識がありましたので、長い話を神妙な顔をして聞いておりました。  一方で、狐狸妖怪の話は、昼日中の明るいうちに聞けば、面白おかしく聞くことができました。  怖いもの見たさと申しましょうか、むしろ積極的に聞きたがったものです。  ですが、これが夜になると、急に不気味なものに思われてきます。  昼間おばあちゃんが話してくれた妖怪たちが、物陰に潜んでいるような気がして、怖くてたまらなくなるのです。  そんな中、トイレにいかなくてはいけないのですから、  どうしようと、布団の中でもじもじしておりました。  ありがたいことに、年寄りは夜中に何度もトイレにいくので、おばあちゃんが起きくると、ほっとして布団を抜け出すのでした。  そして朝になれば、そんなことは忘れてしまったかのように、またおばあちゃんの話を楽しみにするのでした。  あれは、夕立がざっと降ったあとのことでしたでしょうか。山のほうから、コーン、コーンという、高く響く音が聞こえてきました。 「おばあちゃん、あれなあに?今の音、きつね?」  そういうと、おばあちゃんはいたずらっぽい微笑みを返しました。でも、当時の私は、それが何を意味するものなのかわかりませんでした。 「おや、あれはね、きつねじゃない。あれは、ししおどしといってな、怖い怖い妖怪じゃ」  ししおどしなんていう単語を聞くのは初めてでしたから、興味をひかれました。 「妖怪なの?どんな妖怪?」 「それはそれは怖い妖怪さ。獅子とは、知っておるじゃろう?ライオンのことを、昔は獅子といっておった。その獅子をおどして喰ってしまうから、ししおどしじゃ。そうさのう、この辺の妖怪の中じゃ、一番強くて一番怖いかの。きつねやたぬきなんざ、尻尾を巻いて逃げ出すじゃ」  おばあちゃんの予定では、そこで私が、きゃー、怖い、と怖がって終わりだったのかもしれません。ですが、私がこんな質問をしたので、一瞬面食らったような表情を見せました。 「へえ、そうなの。どんな恰好をしているの?」 「うん?それがじゃな、それが…、そうそう、誰も本当の姿を見たものはおらんのじゃ。あるものには、身の丈三丈の大男に見えるし、またあるものには、目が四つで足が六本の怪物に見える。変幻自在の怪物じゃ。言い伝えによると、ししおどしの本当の姿を見てしまったものは、死んでしまうそうじゃ」  そこでやっと本来の目的を達成できたようです。でも、少しやりすぎたと思ったのかもしれません。おばあちゃんは、こう続けました。 「じゃが、山の神だという、別の伝説もあるんじゃよ。それによると、ししおどしの本当の姿を見たものには、幸運が訪れるといわれておる」  それを聞いて、私の恐怖心が和らいだのかどうなのか。もう、よく覚えていません。  いずれにせよ、俄然そのししおどしとやらに興味を持ったのは確かです。それから、もっともっとと、おばあちゃんにししおどしのことを聞きたがりました。 「他には、どんな姿をしているの?」 「神さまなのに、ライオンを食べちゃうの?」 「山の中に住んでるの?里に下りてくることはない?」  それは子どもらしい純朴な質問だったでしょうが、おばあちゃんにとっては困ったことになったようです。  もちろん、ご存じのように、ししおどしとは妖怪の名前ではありません。あの、竹を組み合わせて作った、田畑を荒らす害獣を追い払うための仕掛けであります。  獅子をおどすからししおどしではなく、本来は鹿をおどすと書いてししおどしです。  おそらく、昔誰かが山の中に作ったものが、そのままになっていたのでしょう。  それを私の怖がりが妖怪にしてしまったのか、それともおばあちゃんの冗談好きのせいなのか。  いずれにしろ作り話ですから、詳しいことを聞かれたって困ります。おばあちゃんは、都合よく用事を思い出して、さっさとその場をまとめてしまいました。  でもそれからというもの、私は、ししおどしが気になってしょうがなくなってしまいました。  夕立になれば、山から聞こえてくる、コーン、コーン、という音に耳をすませます。  雷が鳴れば、稲光に照らされたししおどしを想像します。  生暖かい風が頬を通り過ぎると、近くにししおどしがきているのではないかと、むやみに怖れていました。  いったい、ししおどしとはどんな姿なのだろうと想像して、広告の裏にいろいろと絵を描いたものです。  それは、手から足が生えていたり、のっぺらぼうの顔の上に目が浮かんでいたりと、なんとも不恰好なものでした。  空に変わった形の雲が浮かんでいるのを見ると、あれはししおどしが乗っているのだと思います。  しまいには、なんでもししおどしに結びつけるようになっていて、家鳴りがしただけでも、これはししおどしの仕業だろうかと、身構えていたものでした。  そんなある日の朝のこと。珍しく近所の子どもたちが私を誘ってくれて、釣りに連れてってもらえることになりました。  渓流釣りというのでしょうか。おばあちゃんの家の裏山深くまで分け入って、川の上流にまいります。  ふと、ししおどしのことが頭をよぎって、奥までいって大丈夫だろうかと不安になります。  ですが、彼らが私を仲間に入れてくれることも珍しく、いってみたいという気持ちの方が勝りました。  おばあちゃんも、さすがに二週間も孫娘が一緒だと、たまには息抜きしたくなるのでしょう。  いってらっしゃいといわれて、ついていくことにしました。  すぐそばにあっても、実は山の奥まで入るのはそのときが初めてでした。  薮を漕いで、細い獣道のようなところを通って進んでいきます。  今思えば、里山でしたし、渓流といっても、それほど奥ではなかったのでしょう。地元の彼らにとっては、ほんのすぐそこだったはずです。  でなければ、あんなことをしようという気にはならなかったでしょうから。  ポイントに着いて、めいめいが釣りを開始しました。竿は、みんな竹竿を切って糸をつけただけのものです。  私も一本貸してもらって、糸を垂らしました。  このとき、みんなやけに親切でした。エサのミミズもつけてもらって、よく釣れるというポイントまで教えてもらいました。  都会育ちとはいえ、田舎に馴染みもあります。昔の子どもですので、素手でミミズが触れないということもなかったのですが、これは素直にありがたく思いました。  やはりみんなは、今まで私のことを警戒していたのだろうと思いました。  都会から変なのがやってきて、仲間に入れるか入れまいかどうしようかと、そう思っていたけれど、受け入れてもらえることになったのだ。  この場所は彼らのとっておきの場所かなにかで、それで連れてきてもらえることになったのだと、そう解釈していました。  しばらくすると、彼らの釣り竿に魚がかかり出しました。さすがにみんなお手のもので、そのうちにまだ釣り上げていないのは、私だけになってしまいました。  私はちょっと焦りました。せっかく仲間に入れてもらったのに、まったく釣れずに帰っては、また仲間外れになってしまうと思いました。  私に当たりがこないと見ると、彼らは親切にも、ポイントを変えるように教えてくれました。それでもこないとなると、また別のポイントを示します。  だんだんと奥に入っていってしまうように思われましたが、まだ目の届く範囲に彼らがいましたので、安心していました。  大きな音を立てると魚が逃げていってしまいますので、誰もはしゃいだり、大声で会話するものもありません。  聞こえるものといえば、沢の流れる音のほかには、木々の間を風が通り抜ける音と、山鳥の鳴く自然の音ばかりです。  私のいる場所は彼らのところからは見えにくくなっていました。ときおり、私は木陰の向こうにチラチラと動く彼らの姿を確認しながら、早く当たりがこないかと、祈るような心持ちで竿を垂れていました。  すると、遠くから聞こえてきたのです。あの、コーン、コーンという、きつねの鳴くような音が。  はっとして、私は顔を上げました。ししおどしです。山の奥まで来るうちに、気づかずししおどしの住処の近くまで来ていたのかもしれません。  もし出会ってしまったら、どうするのでしょう。不安にかられて、どこかにししおどしがいやしないかと、まわりを見渡してみました。  そこで気づいたのです。もっと不安にさせられるようなことに。  見えないのでした。彼らが。  木陰を通して見えていたはずの一緒に来た子どもたちの姿が、どこにも見えないのです。  急いで竿を上げて、様子を見にいきました。ですが、やはりどこにもいないのです。  知らない間にポイントを変えていたのかと、少し下流の方まで沢沿いに歩いていってみましたが、どこにも一人も見当たりませんでした。  やられた、と思いました。裏切られたのだ、私は。  やっぱり田舎の子どもが、都会から来た変なやつを仲間に入れてくれることはなかったのだと、そう思いました。  そうとわかると、急に不安が押し寄せてきました。まるでお腹の底に知らずに隠れていた冷たいネズミが、ヒタヒタと這い上がってきたかのようでした。  ここまで来るのに、ただ彼らのあとをついてきただけです。帰り道なんて、どう戻ったらいいのかわかりません。  なんともいえない心細さでいっぱいになりました。  おまけに、ししおどしのコーンコーンという音も、まだ聞こえていました。  今このときのことを振り返ると、本当に不思議です。だってこの日は、朝から天気がよかったのですから。いったい何がコーンコーンという音を立てていたのでしょう?  そのときでした。バシャン、という、水の跳ねる音が聞こえました。  見ると、白いランニングのイガグリ頭が、川の中でなにかをやっているのが目に入りました。  ああ、よかった。ほっと胸を撫で下ろしました。  私をおいてどこかにいってしまったのかと思いましたが、そうではなかったようです。  いるのは、その子だけのようでしたが、なにはともあれ、安心しました。 「なにしてるの」  緊張がほぐれた反動なのでしょう。私から何気なく声をかけました。  男の子は向こう向きに腰を屈めて、川でなにかを採っている様子でした。  その子は振り返り、にいっと笑いました。  おや、と思いました。その顔に見覚えがなかったからです。  一緒に来た子の中にこんな子はいただろうか。ですが、私もあまり交流のない彼らの顔を、すべて正確に覚えているわけではありません。  あるいは、出発時にはいなかった他の子が、途中から合流したのかもしれません。  男の子は川から出てこちらへやってきました。手になにか持っているようです。 「ほら」  片手を開いて見せてくれると、そこには手のひらいっぱいに、緑色の小さなものが乗っていました。  よく見ると、小さくとも立派なカメの姿をしています。 「わあ、カメの赤ちゃん」 「違うっちゃ。カメムシじゃ」  カメムシ?カメムシというと、洗濯物や障子などにくっついていることがある、あの、くさいにおいを出す小さな虫のことでしょうか。  こちらの田舎では、体長が2センチほどもある大きなものを見ることもあります。  男の子の手のひらに乗っているのは、そのくらいの大きさをしていましたが、姿形はどう見てもカメそのものでした。  小さい甲羅から、短い手足と首が出ています。甲羅に引っ込んでいるものもありました。 「カメでしょ?」 「カメムシじゃ。見んさい」  男の子は一匹を指でつまむと、宙に放りました。すると、それは地面に落下せずに、羽を広げてブーンと空を飛んでいったのです。 「カメ飛んだ!」  驚いて男の子を見ると、彼は黙って手のひらを指差しました。  見ると、小さなカメの中には、甲羅が真ん中で二つに割れて、その場で羽ばたきを繰り返しているものがありました。甲羅の下には、薄い羽が折りたたまれているようでした。  まるでテントウムシみたいです。 「なに、これ、虫?本当に虫なの?」  それには答えず、男の子はいたずらっぽく笑うと、一つつまんで私の肩に止まらせました。  カメの緑色の甲羅は、まるでブローチのように、陽の光を浴びて輝きました。 「おまえ、ふもとの家の子じゃか」 「おばあちゃんちに来てるの。知ってるでしょ?夏休みの間だけ」 「まだおるんか?」 「もうちょっと。お母さんが迎えにくるまで。それより、ねえ、さっきの。あんなのが川にいるの?」 「この辺にゃいっぱいおる。都会じゃ見たことないじゃろ」  川の中を覗き込もうとした私を、男の子は止めました。 「もう、おらん。それよりみんなとはぐれたんじゃろ。昼までに帰らんと、ばばが心配するじゃ」  そういわれて、私は自分が置かれている状況に改めて気づきました。 「ついてきんさい」  男の子は、とっとと沢を下っていきました。 「あ、待ってよ」  カメムシなるものが気になりましたが、仕方ありません。ひとりぼっちで山に取り残されるわけにはいきませんでした。  肩に止まった小さなカメは、短い手足でぎゅっと服にしがみついておりました。ししおどしの音は、もうしなくなっておりました。  帰り道、私たちは無言で山を下りました。  なにか話したかったのですけど、男の子の歩くスピードがとても速いものですから、私は見失わないようについていくのがやっとでした。  見覚えのある場所に出て、もうじき里に着くかというとき、急に男の子が話しかけてきました。 「おまえ、ししおどしって知っとるか」 「知ってる。さっき、コーン、コーンって聞こえてたでしょ。私、ししおどしが近くにいるのかと思った」 「ときどきな、この辺に姿を見せることがあるじゃ」 「見たことあるの?」  そのとき、おーい、おーい、という、おばあちゃんの心配そうな声が聞こえてきました。ここはもうすぐ家の近くのようです。 「これ、全部おまえにやる」  男の子は私の手を取って、小さなカメたちをみんな握らせました。カメたちは一様に甲羅に引っ込んで、私の手の中でコロコロと転がりました。 「ねえ、ししおどし」  顔を上げたときには、男の子はもうどこかに消えてしまっていました。  里に下りると、青ざめた顔のおばあちゃんが、一目散に駆けつけてきました。  申し訳なさそうな近所の子どもたちも一緒でした。太陽はすでにだいぶ西に傾いて、赤くなっていました。  あとでわかったことですが、このとき近所の子どもたちは、ほんの軽い気持ちで私にいたずらをしかけたようなのです。  少しの間だけ隠れておいて、おどかしてやろうという、そういうつもりだったようでした。  ですが、出ていっても、私がどこにも見当たりません。しばらく探していましたが、これはもう冗談ごとではないと、山を下りて大人を呼びにいったということでした。  私があの不思議な男の子と一緒にいた時間は、ほんのわずかなものだったと思うのですが、ときに山の中では時間の感覚がわからなくなるといいます。  お腹も全然空いていなかったし、まさか夕方まで山にいたとは思えませんでした。  山を下りた私はどこにも悪いところはなく、おばあちゃんも一安心したようでしたが、なぜか手に大量のカメムシを握っていて、しばらくはそのくささにまいってしまったのを覚えています。  肩についていたのは、いつのまにかどこかにいってしまっていました。  今では、もうおばあちゃんも亡くなり、家も取り壊されてしまって、田舎にいくようなこともなくなりました。  山中のししおどしは、まだあるのかないのか、その後のことはわかりません。  ただその当時から、どうしてもあの子の顔が思い出せませんでした。  田舎では、こういうことはすべてきつねのしわざにされてしまうものです。
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