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いつもと変わらない女の子が緩みそうな甘い仁の微笑み。なのに今はメッセージを無視した罪悪感で申し訳ないというか、ちょっとだけ怖く感じて近付いてくる仁の視線を逸らしてしまった。
毎朝『おはよう』というメッセージのやりとりは続いていた。先に起きた方がおはようと送る。送信するかどうか迷ってしまうというのは最初の頃だけで、今は生活の一部になって躊躇すらなくなっていた。
直接会った時も、お互いそれが変だとは口に出さない。だから続いているのかもしれない。今回は仁からの「おはよう」だったのに、今では無視するという事を躊躇してしまうほど当たり前になっていたことを実感した。
そんな流れを崩したのは俺だ。
仁がどう思ったのかは分からない。そんな日もあるだろうと流してほしい。けど、明日はどう思うだろうか?たった少しのやりとりだ。仁にとってはどうにも思わないで欲しい。その方が助かると思った途端、目の前に影が落ちたことで肩が揺れた。
「おはよ」
いつもより低く聞こえる声に目を丸くして見上げると、他の誰にも目を向けずに仁が俺だけを少し鋭い目つきで見ていた。けど口角は上がっている。まるで作ったような笑みだった。
「…おはよ」
「おはよって。もうこんにちはだろ。よっ!」
「……よ、よぉ」
すると、横に居た臣が仁の背後から顔を出して、久し振りに見た爽やかな雰囲気を漂わせて笑顔で手を上げていた。けど臣のそんな爽やかさを消してしまうほど、仁の視線が痛くてそれどころではない。
「仁ー。久しぶりじゃん。元気してた?丁度仁の話をしてたんだよ〜。大和君と仲が良いんだねって」
美夕は慣れたように仁に話しかけていたが、その内容に思いっきり美夕の方に目を向けて見開いた。
その話題やめろ!気まずい。非常に気まずい!
苦笑いが止まらないまま、目の前にいる仁を恐る恐る見上げる。仁は何処か不自然に右口角だけを上げて、美夕に目線を移した。
「仲良いと思ってたんだけどさぁ、大和はそう思ってないみたい。…な?大和」
「いや、その、…ごめん。朝バタバタしてて連絡が返せなかった」
昨日の部屋水没事件のことがあったから余裕が無かった…と言えば嘘ではない。けど、おはようの返事を返せる余裕はあった。
あれ?そもそも俺は何故こんなに必死になってるんだ。それは仁が怒ってると思ったからで…って、仁が怒ってるように見える?
もう一度仁を見上げると、怒っているようにも見える。一般的に常識として返信はしなきゃいけないのは分かってるんだけど、仁がこんなに怒るとは思わなかったから不思議だった。…相手は俺だぞ?
「大和は忙しいから許してあげて。家に帰れないんだよ」
「何それ。なんで帰れないの?」
菫が宥めるように言うと、仁はきょとんとした顔をしながら驚いている様子だった。
「実は前の休みの日に仁と会っただろ。…ほら、あの、たまたま会った日」
休みの日と言った後に女装してたバイトの日という事を思い出した。臣だけでは無く他の人にバレたくなくて目に力を入れ、言うなよ!という気持ちを込め、仁の服をさりげなく引っ張ってアピールした。仁は察したのか、俺にだけ分かるようにウインクをしていた。
「あー、うん。会ったね。それで?」
「家帰ったら家が水没してた。…マンションの事情だけど」
「うわぁ、それ大変だな。今何処に住んでんの?バイトとか大丈夫なのか?」
すると、横で同じように話を聞いていた臣は心配そうに覗き込んできた。
「うん。大丈夫。ホテルにお世話になる事になってるし」
「ホテル?それなら俺ん家来なよ」
「…ヴッ…」
ひょこっと横から顔を覗き込むように言ってきた仁のとんでもない言葉に聞いた事ない自分の変な声が漏れた。これは絶対に仁から言われたくなかった言葉だ。
そして仁は何故か目をキラキラさせて目を離さない。なんだよその目は。離れようとしているのに更に近付くなんて、絶対ダメだからな。そんなことになったら同じ空気吸う時間が増えるってことだよな。これこそもう逃げられない。というか、俺が耐えられない。
「い…いや、いいって。いつまで居れるか分からないから仁に悪いし、迷惑は掛けれない。ありがとうな」
さっきと同じようにしっかりと断るが、少しだけ弱気になってしまう。だって仁が目線を絶対に離さないんだ。
「なんで?二度も泊まったからもう慣れたっしょ。俺が良いって言ってんのに」
「でもさぁ、仁の部屋なら女の子連れ込んでたら大和君が気まずいじゃん?」
いつの間にか席についていた美夕は、テーブルに肘をついて片眉を上げながら仁を見上げた。
「あぁ、そんな女の子今居ないよ」
「嘘つきー!仁がいない訳ないじゃん!」
「女の子と遊んだりするけど、実は菫ちゃんに振られてから良い感じの子は居ないから」
「………えっ」
美夕と仁のやりとりを見ていたが、仁の言葉に小さく声が漏れた。
「嘘吐くなよ。居るだろ?」
「本当に居ないんだって。逆に虚しい問い詰めやめろよ」
思わず仁に問いかけると、冗談じゃないと言いたげに眉を顰めた。
「なに〜仁はさ、まだ菫に未練あるの?」
「菫ちゃんは可愛いけど、流石に切り替えなきゃね」
張本人が目の前にいるのに二人の会話は進んでいく。菫も菫で一切気にする様子もなく普通の顔でご飯を食べながらその様子を見ているだけだった。
そんな中、俺の心臓の音が聞こえるのではないかというくらい鼓動が速かった。
俺は何をホッとしてんだ。やめろ。他に絶対女の子いるに決まってるじゃん。前だって普通に女の子と居たし。そう思うとまだ自制を保てる。
「部屋に呼びたくなる女の子なんて誰も居ないよ」
上から聞こえた仁の声に俯いた顔を上げてしまうと、女の子が落ちそうなほど甘い笑みを浮かべた仁と目が合ってしまった。
「っ…」
目が合った瞬間、我慢出来ずに顔へ熱が一気に集まっていくのが分かった。
なんで俺に向けていうんだよ!やめてくれ。それは女の子に向ける顔だろ!わざとなのか?変に期待なんてしたくないんだよ。
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