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04.おしごと
ディートフリートがやって来た翌日、ユリアーナは朝の仕事を終わらせてから新居に引っ越すことになった。
荷物もそれほど多くなく、ディートフリートと二人でやると数往復で終わった。
家具も備え付けなので、買い足すものはほとんどない。
荷解きをして衣装棚に服を掛けていると、後ろからディートフリートが顔を寄せて覗き込んできた。
「服が少ないね。もう少し増やしてもいいんじゃないかな」
地味なワンピースが数着と、仕事着だけ。それも新しいものはひとつもない。清潔さを心がけてはいるが、ディートフリートの隣に並んで似合うものとは言えなかった。
もう恋愛などすることもなかったし、服やアクセサリーに気を使って色気を出す必要もなかったからだ。けれど今は、ディートフリートに可愛いと思われたかった。おしゃれをして、楽しみたい。
「ディーは、どんな服が好みですか?」
「そうだな、ユリアーナの着る物ならなんでも素敵だけど……昔はよく、ワインレッドのドレスを着ていたね。もう一度見てみたいな」
「今の私に似合うかしら……」
「似合うよ。その髪の色にも、絶対に」
後ろから優しく抱きしめられて、少女のようにドキドキとしてしまう。
昨日は夕方の忙しい時間帯に働きに戻り、そのまま宿の一室に泊まったので、まだ男女の関係には至っていない。
おそらくは今夜、ようやく結ばれることとなるだろう。それとも今なのだろうかと胸を高鳴らせる。
一つしかないセミダブルのベッドが、すぐそこで今か今かとユリアーナたちを待っているようにすら見えた。
どうしようと身を固くしていると、ゆっくりとディートフリートは離れて行く。ほっとすると同時に、少し残念な気持ちも含まれた息を吐き出した。
「さて、そろそろ忙しい時間帯に入るんじゃないかな?」
「あら、もうそんな時間でした?」
時計を見るともう午後四時を指していた。
昨日もこの時間から忙しくなるからと、宿の方に戻っていたのだ。それをディートフリートは気にしていてくれた。
「じゃあ、すみませんが行ってきます。夜は遅くなると思いますが、必ずこちらに帰ってきますから」
「僕も一緒に行っていいかな?」
ユリアーナが外に出ようとすると、ディートフリートに後ろから声を掛けられる。
「ディーも?」
「宿で、料理人募集の張り紙をしていたよね」
「え? ええ」
「僕を雇ってもらえないかな」
その言葉にユリアーナは目を広げる。コトリ亭の厨房はおかみであるケーテが取り仕切っているが、彼女はその昔、貴族の元で働く料理人だったので味にうるさい人だ。人手がたりないのに料理人がなかなか決まらないのは、ケーテのお眼鏡にかなう人がいなかったからである。
もちろん、ディートフリートが良いものを食べて育ったのは知っているが、それと料理の腕前は別物だ。
「ディーは料理なんてしたことがないでしょう?」
「いや、するよ。僕の趣味なんだ。ユリアーナと別れたあとからのね」
にこにこと嬉しそうに笑うディートフリート。そんな趣味があったなんて、考えもしていなかった。
王族は普通、料理なんてものはしないだろう。もしかしたらこの日のために習っていたのかもしれないと思うと、ユリアーナの胸は熱くなった。
「ありがとう、ディー……」
一度離れていた体を、今度は自分から密着させる。
はしたないかもしれないと思ったが、もうこちらは二十三年も前に貴族から離れているのだ。ディートフリートだって、今は一般人という身分。
そっと腰に手を回されたかと思うと、体を押し上げられて唇が奪われた。
ふわふわ揺れるような居心地にうっとりしていると、少し離れたディートフリートは照れたように破顔している。
「行こうか。ケーテさんもユリアがいないと困っているだろう」
ディートフリートは少し顔を赤くしたまま、ユリアーナの手を取ってくれた。
「続きは、夜にね」
そんな風に言われて、やはり今晩結ばれるのだと確信する。もちろん嫌なわけではない。むしろ、何度夢見てきたことか分からない。
けれども、やはり初めて経験することというのは緊張するものだ。
ユリアーナとディートフリートは、そのまま手を繋いでコトリ亭まで歩いて行く。
ディートフリートの温かさを感じる手は、嬉しくも気恥ずかしい。良い歳をした男女が手を繋いでいるのを見て、周りはどう思っているだろうか。
思えば、手を繋いで歩くなど初めての経験だったとふと気づく。
チラリと見上げると、彼の顔は少し強張っているようで。ディートフリートも緊張しているのかと、ユリアーナは笑ってしまった。
「……ふふっ」
「どうした? ユリア」
「すみません、嬉しくて」
心のままを伝えると、ディートフリートは目を細めて、優しく微笑んでくれる。
その顔を見るだけで、胸がきゅうきゅうと鳴き声を上げた。体からほかほかとしてものが溢れ出てきて、緩む顔を止められない。
そんな状態でコトリ亭に入ると、チェックインのお客でごった返していて、ユリアーナは慌ててケーテに近寄った。
「あ、ユーリ……じゃなくて、ユリア! すまないね、夕飯の準備に入りたいんだ。こっちを頼むよ!」
名前は、偽名のユーリをやめてユリア呼びにしてもらった。まだまだ慣れるまでには時間が掛かりそうだったが。
「おかみさん、ディーが料理人としてここで働きたいと言っているの」
「え? 王さんが? できるのかい?」
「ディートで構いませんよ。料理の腕と、舌には自信があります」
キリッと前を見据えて宣言する姿にくらりとなりつつも、ユリアーナは溢れた客を捌いて行く。
そんなユリアーナを横目に、ディートフリートは厨房に連れられていった。
厨房は、今から夜の九時くらいまでノンストップで忙しい。大丈夫だろうかと気になりつつも、ユリアーナは己の仕事をこなした。様子は見に行けなかったが、今日の料理は軒並み評判が良かったのでほっとする。
九時になって落ち着いたところで、ようやく宿の者の夕飯になった。
ディートフリートの作った賄い料理はいつもより豪華で、一般庶民の感覚を得るには少し時間が必要だろう。けれどおかみのケーテは、ディートフリートの作る料理をいたく気に入ったようだ。
ユリアーナは、ディートフリートの料理がここまでの物だとは思っていなかった。王城で食べていた頃の味と遜色なく、素直に感心する。
「美味しいかい、ユリア」
「ええ、とっても。びっくりしました」
正直な感想を告げると、ディートフリートはユリアーナに褒められて鼻高々といった感じで、嬉しそうに笑っていた。こういうかわいいとろは昔から変わっていないなと頬を緩めて料理を味わった。
結局ディートフリートは、コトリ亭の料理人として採用してもらった。
全ての後片付けを終えて、宿でお風呂に入らせてもらってから家路に着く。いつもは宿の一室に泊まっていたが、今日からは家があるのだ。
夜の街はもうひっそりと静まりかえっていて、月は綺麗だが暗くて少し怖い。
自分でも気づかぬうちにディートフリートに寄りそってしまっていて、優しく肩を抱かれた。
「ディー……」
「お疲れ、ユリア」
「ディーもお疲れ様でした。慣れない仕事で大変ではなかったですか?」
「そうだね。こんなにずっと立ちっぱなしということがないから、さすがに疲れたよ。宿の仕事というのは、思った以上に大変だね」
ははと笑うその顔は、疲れたと言う割には嬉しそうで、ユリアーナは少し安心する。
「ユリアは明日、朝六時に行かなければいけないんだろう? 大丈夫かい?」
「慣れてますから」
朝食はユリアーナとケーテの二人で準備できるので、ディートフリートの出勤時間は十一時からになった。そして午後二時まで働いてもらい、四時から十時までという変則シフトである。
ユリアーナは朝六時から夜の十時まで、早ければ九時終わりだ。でも一人で帰るのは怖いので、ディートフリートの手伝いをして一緒に帰ることになるだろう。
「就労時間が長すぎる。どうにかして改善していかないと、ユリアが倒れてしまうよ」
ああしてこうしてとブツブツ言っている姿は、きっと王であった頃と変わらぬ姿だろう。頼もしい限りだ。
この人がいる限り、コトリ亭も、そしてこの町も繁栄していく……そんな予感がひしひしとした。
家に帰るともう十一時近くなっていて、疲れているディートフリートにハーブティーを淹れてあげた。
もうお風呂は二人とも済ませている。あとはベッドに、入るだけ。
飲み終えたカップを流しに持っていき、それを洗いながらユリアーナはゆっくり深呼吸した。
いよいよだ。四十歳になって、いよいよ。
どれだけ深呼吸しても深呼吸しても、胸の鼓動はドキドキと高鳴るばかり。
嬉しい気持ちの方が大きいはずなのに、何故か手は震えている。
でも、ディートフリートなら。
ずっと、ディートフリートだけに捧げたいと思ってきたのだ。
それが今夜、ようやく叶う。齢四十にして初めてを、やっと捧げられる。
初めては痛いとも聞くし、怖くもあったが、ユリアーナは覚悟を決めた。
こんなに嬉しい夜は、他にないはずなのだから。
心を決めたユリアーナは寝室に続く扉を開ける。
そのベッドの上にはディートフリートがすでに横たわっていて、ユリアーナの心臓は極限状態にまで跳ねた。
「ディ、ディー……」
震える声で呼びかける。押し倒されてもいいように、無駄な力は抜いておく。
「ユリ……ア……」
「……ディー?」
くう、という寝息が聞こえてきた。
顔を覗くと、口を少し開けてくうくうと空気を移動させていた。
「寝て……る?」
少し頭を撫でてみるも、反応はない。そんなディートフリートの姿を見て、ユリアーナは少し吹き出した。
一世一代の決心をして、押し倒されたときのシミュレーションまでしたというのに、相手は熟睡している事実に笑えてしまったのだ。
「ふふっ。今日は忙しかったものね」
こんなに長時間立ちっぱなしで働くことは、今までなかっただろう。
疲れていても仕方がなかった。
「ディー……今日はいいけど、今度はちゃんと……ね?」
ユリアーナはディートフリートのこめかみにそっと唇を落とすと、その隣に滑り込み、同じベッドで眠ったのだった。
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