第三十一章 集合

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第三十一章 集合

 深く沈んでいた意識が、徐々に浮かび上がっていくのが分かった。せわしない蝉の声に導かれるように、宗史(そうし)はゆっくりと瞼を持ち上げた。  ぼんやりする頭でしばらく見慣れない天井を眺め、寮かとやっと認識する。のろのろと脳みそが稼働を始め、おもむろに息を吐き出した。  どうやら生きているらしい。  だが、こうして横になっているだけでも体が重い。動くのが面倒だと思うほどだ。とはいえ、酷く喉が渇いて、このままでは干からびる。  宗史は、重りでも巻き付けられているような鈍い動きで体を起こした。とたん、ぐらりと視界が歪む。咄嗟に息を詰め、顔を歪ませて俯き、手で覆って耐える。回転台に乗ってぐるぐると回っているような感覚。貧血に加えて水分も足りていない。早く摂らないと。  そんなことを考えながら、平衡感覚が戻るのを待つ。自業自得だし、こうなるのは分かっていた。けれど想像以上に辛い。吐き気がする。  しばらくして目眩が収まり、慎重に顔を覆った手を外す。いきなり動いてまた襲われるのは勘弁だ。ゆっくりと顔を上げ、ひとまず視線だけを動かしてみる。大丈夫か。ほっと脱力し、今度はそろりと首を回した。隣のベッドに目が止まる。おそらく(せい)だろうが、使った形跡はあるのに本人がいない。  そういえば、今何時だろう。カーテンの向こう側は明るいから、朝であることに間違いない。チェストに置かれた携帯が視界の端に映った。宗史はゆっくりと腕を伸ばして時間を確認する。まだ五時過ぎ。昨日は遅かっただろうに、こんな時間に晴が起きるなんて。  携帯を袂に入れ、気だるさを押して体を動かした。足を床につけて、ふと動きを止める。浴衣であることは気付いていたけれど、明かにサイズが合っていない。肩幅はもちろん、袖口は手にかかり、裾もかかとまで長く引き摺りそうだ。晴のか、と小さく呟く。体格差も身長差もあるのだから当然なのだが、こうも差があると悔しい。  着替えた方がいいかと思うけれど、かなり面倒だし、この気だるさで洋服は窮屈だ。宗史は逡巡し、結局乱れた襟元を整えてベッドから下りた。  一歩一歩、慎重に足を踏み出す。体を動かすことがこんなに怖いなんて。貧血ってのは厄介だな。一人嘆息して扉を開ける。  湿気と熱気を含んだ空気が一気に流れ込んできて、冷えた体にまとわりついた。廊下の突き当たり、天井まで設えられた嵌め殺しの窓から燦々と太陽の光が差し込み、長い廊下を隅々まで照らしている。あまりの明るさに思わず目を細めた。  今日も暑い。  廊下は驚くほどしんと静まり返っている。静かに扉を閉めると、向かいの大河(たいが)の部屋から微かに携帯のアラーム音が聞こえた。しばらく聞いていても止む気配がない。この音量なら他の部屋に響く心配はないし、放っておいてもいいだろう。  宗史は、大河の隣室の扉を一瞥し、ゆっくりと足を進めた。向かったのは洗面所。勝手知ったる寮だ。洗面台の下から使い捨ての歯ブラシを失敬し、のろのろと洗面と歯磨きを終わらせ、慎重に階段を下りる。早く何か飲みたいという欲求と、転げ落ちたら洒落にならないという慎重さがせめぎ合う。  無事、目眩も起きず転げ落ちることもなく階段を下り切ってほっと一安心し、リビングへ向かう。  扉は案の定閉め切られていたが、人の声や気配がない。ということは、おそらく晴以外誰も起きていないのだろう。  扉を開けると、眩しい太陽の光と降り注ぐような蝉の合掌の中、縁側に腰を下ろす見慣れた背中があった。横には汗をかいたスポーツドリンクのペットボトル。そして、微かな煙草の臭い。  扉が開く音に振り向いた晴が、おっ、という顔をした。 「目ぇ覚めたか」 「ああ」  後ろ手で扉を閉め、縁側ではなく冷蔵庫へ足を向ける。 「つーか、起きて大丈夫なのかよ」 「問題ない」  冷蔵庫を開け、一段丸まる占拠したスポーツドリンクの一本を取り出す。その場で蓋を捻って開けると、水に飢えた砂漠の旅人のように一気にあおった。じんわりと体中に水分が行きわたっていくのが分かる。一度口を離して息を吐き出し、もう一度あおる。半分以上飲み干して、やっと乾きが落ち着いた。  蓋を閉めて縁側へ足を向けると、晴がこちらとじっと見つめて顔をしかめた。 「何だ?」 「何だじゃねぇ。どこが問題ないって? 顔真っ白じゃねぇか」 「ただの貧血だ」  いつも庭からリビングに上がるので靴はあるが、裸足だ。隣に正座をしながら一蹴した宗史に、晴はますます眉根を寄せた。 「ただのってレベルで済む出血量じゃなかったぞ」 「分かってる」  これまたさらりと返した宗史に、今度は舌打ちが返ってきた。心配してやってんのに可愛くねぇ、とか思っているのだろう。晴は煙草をくわえて紫煙を吐き出すと、側に置いていた携帯灰皿に吸殻を押し込んだ。まだ半分くらい残っているのに。  晴を横目で盗み見て、宗史は惨憺たる庭へ視線を投げた。  寮と離れの間仕切りや桜の木は木屑と化し、地面には無数の穴が空いている。激痛と失血で気を失う直前に宗一郎(そういちろう)たちの怒声が響き、体が揺れた感覚があったが、尖鋭の術で攻撃されたのか。  あんな手段を取ることに、迷わなかったわけではない。晴や(はる)栄明(えいめい)はもちろん、宗一郎や律子(りつこ)、そして何より、大河の前であんな場面を見せるのは躊躇った。彼は目の前で祖父を殺されているのだ。迷わないわけがない。  本来ならば、リンが遅番だったため護衛の時間は九時半以降。会合開始時間よりあとだった。龍之介(りゅうのうすけ)冬馬(とうま)たちの襲撃に合わせて動いただろうから、椿(つばき)志季(しき)は会合に間に合わない。歯痒く思いつつも、今回は見送るつもりだった。けれど、リンが早退したことで護衛時間が前倒しとなり、椿は時間内に戻ってきた。  もっと別の状況なら他のやり方もあったのだが、あの場ではああするしかなかった。もう時間がない。少しでも多くの情報が必要だ。  とはいえ、独断で実行し、心配をかけたことに変わりはない。 「……悪かった」  ぽつりと謝罪の言葉を口にすると、晴があんぐりと口を開けた間抜け面で宗史を凝視した。その晴を横目で睨み、眉をひそめる。 「何だ、その珍妙なものでも見るような顔は」 「いや、だって……お前が俺に謝るとか……。空から槍でも降ってくるんじゃねぇの?」 「矢ならくれてやるぞ」  本気で心配そうな顔をして空を見上げた晴に、宗史は心底不快気に顔を歪めた。そういえば大河の初陣の日、賀茂家で「俺のこと誤解してねぇ?」と言っていたが、誤解しているのは晴の方だ。こいつは人を何だと思っている。  宗史は、心外なと息をついてペットボトルを持ち上げた。  六年前の事故の詳細を聞いたのは昨日、(あきら)が任意同行をかけられる前。(すばる)の正体や怜司(れいじ)の過去と共に、この六年間、秘密裏に何をしていたのかを聞かされた。蚊帳の外だったことよりも、あの事故が、計画殺人の可能性があることに衝撃を受けた。当時中学生だった宗史に詳細は伝えられていなかったが、聞いてすぐに不自然な点に気が付いた。そして犬神事件と横領の証拠、龍之介の愚行。全て総合して考えると、間違いなく栄晴(えいせい)は殺された。  押し潰されそうなほどの罪悪感にかられ、しかしいつまでも落ち込んではいられなかった。やるべきことも考えるべきことも山積みで、無理矢理頭の隅に押しやった。けれど今は。  宗史は膝の上で強く組んだ両手に目を落とした。 「――晴」 「んー?」  晴はペットボトルをあおりながら、緊張感のない返事をした。  草薙(くさなぎ)は、賀茂家の氏子だ。かつては一介(いちすけ)が氏子代表を務めていたが、高齢のため東京から行き来するのが難しくなったことを理由に、賀茂家の篤信家かつ京都在住だからと草薙がその役目を引き継いだ。いつから草薙が土御門家を邪険に思っていたのか知らないが、代替わりをしてから徐々にその本性を現した。  氏子だからといって、全てを知っているわけではない。名立たる企業の社長や重役、政治家や著名人、果ては芸能人と、氏子は多いがあくまでも個人として陰陽師家を信仰しているため、私生活や人間関係、仕事上での繋がりまで把握していない。こちらとしても、鬼代事件が起こるまでは彼らの権力を利用することはなかった。事件が起こって初めて、協力を仰いだ。しかし。 「すまなかった」  ぽつりと、だがはっきりと謝罪した宗史を、晴はペットボトルから口を離して振り向いた。俯いた宗史の横顔を眺め、溜め息を漏らす。 「なんでお前が謝るんだよ」 「草薙は、うちの氏子だ」 「だからって全部の行動を把握してるわけじゃねぇだろ。つーか、してたら怖ぇわ」  晴の言うことは間違っていない。いくら草薙の言動に問題があるからといっても、四六時中監視するわけにはいかない。だが、賀茂家の氏子であることに変わりはない。  両家の関係が築かれたのは、近代に入ってからだと聞いている。陰陽寮が廃止され、陰陽師たちは各地に散り、消息が途絶え次第に数は減っていく。反面、度重なる戦争や、その後の凄惨で不安定な環境によって多数の死者を出し、比例して浮遊霊や悪鬼の数は増え、あちこちで心霊現象や神隠しの噂が飛び交う。だからこそ両家の協力関係は必須。そう判断し、先人たちは長い時間をかけてわだかまりを解き、今の関係を築いたのだ。両家のどちらが絶えても、かつての混沌とした時代を繰り返すことになる。 「草薙が本性を現した時点で、何らかの措置を取るべきだった。こちらの失態だ」  反論した宗史に、晴はペットボトルの蓋を閉めながら「あのなぁ」と呆れ声で言った。 「それを言うなら俺らだってそうだろ。あいつには皆がうんざりしてた。満場一致で氏子代表の権利を剥奪できた。でもしなかった。だから賀茂家(おまえ)が責任を感じる必要はねぇ。もし責任を負う必要があるなら、俺ら全員だ。親父は望んでねぇだろうけどな」  当然のように理論的に切り返した晴を、宗史は唖然として見やった。 「何だよ」  晴は顔をしかめて横目で宗史を睨む。さっきと逆だ。 「いや……お前がそんなふうにまともな反論してくるなんて……大丈夫か?」 「分かってるけどお前ほんと可愛くねぇな」  ったく、としかめ面のままぼやき、晴は煙草を手に取った。  宗史は口元を緩め、庭へ視線を投げた。ライターを擦る音、煙草の苦い匂い、紫煙を吐き出す呼吸。聞き慣れた音と匂いを嗅ぎながら、そっと瞼を閉じる。  土御門家の氏子らをはじめ、明も、晴も、陽も、栄明も、妙子(たえこ)も、そして栄晴と佳澄(かすみ)も。賀茂家の責任だとは決して思わないだろう。それは、会合で仕事の依頼をした軽部の責任だと思わないことと同じ。憎むべきは、罪を負うべきは草薙らであって、他の誰でもない。  影正(かげまさ)の死後、島で聞いた大河の話を思い出した。誰かを亡くした時、大概の人があの時ああしていればと思って後悔する。そうすることを、栄晴は望んではいないだろう。だからといって、自分の中の罪悪感がなくなるわけではない。どんな理屈を並べても、もしもあの時こうしていればという思いが消えることはない。  だからこの先、いつか当主の座に就いた時、今回のことを教訓とし二度と同じ悲劇を起こさないようにしなければならない。  自己満足だと分かっている。けれど、例え栄晴が望まなくても、それがきっと贖罪になる。ひっそりと胸に抱え、生涯をかけて償っていく。  宗史は短く息をついて、瞼を持ち上げた。隣から漂う真っ白な煙を見つめる。 「ありがとう」  自然と出た言葉に返って来たのは、ゆっくり煙を吐き出す呼吸音。陽射しに紛れて、紫煙が宙に溶けていく。  抜けるような夏の青い空と、千切れて流れる白い雲。蝉と雀の鳴き声に、バイクのエンジン音。どこにでもある、早朝の住宅街の喧騒。  そして隣には、感じ慣れた気配。 「やっぱ槍が降るんじゃねぇの」 「よし分かった。今すぐ全力で矢をくれて」  やる、と語尾に合わせたように、リビングの扉が勢いよく開いた。同時に振り向いた先には、焦ったような心配顔の大河が立っている。 「何して……っ」  中途半端に声を発したと思ったら、突然電源が落ちたように固まった。 「どうしたんだ?」 「心配するべきか怒るべきか、全神経が脳みそに集中してるんだろ」  宗史が小首を傾げると、晴が笑いを噛み殺した。ああ……、と宗史が憐みの目をしたところで、大河が我に返った。  おもむろに背を向けてまずは扉を閉め、冷蔵庫へ向かう。ペットボトルを取り出してその場で勢いよくあおり、長く息を吐き出した。気を落ち着かせているようだ。晴がくくっと喉を鳴らして肩を震わせた。  蓋を閉め、意を決したように振り向いた大河の顔はどこか強張り、視線はじっと宗史を見据えている。  大河は宗史の後ろで足を止め、すとんとしゃがんで正座した。睨むというよりは、観察するような眼差し。宗史はおもむろに両手を床についた。器用に体を反転させて、大河と正対する。  真っ直ぐな黒い目が、分かりやすくゆらりと揺れた。  あんな手段を取ったことに、後悔はない。けれど、こんな目を向けられて罪悪感を覚えない奴がいるだろうか。晴が体勢を戻して庭へ顔を向け、静かに紫煙を吐き出した。 「悪かった」  先に沈黙を破ると、ペットボトルを握った大河の手に力がこもった。ゆっくりと手元に視線が落ちる。 「ほんとだよ」  絞り出したような少し掠れた声が、ちくりと胸に刺さった。想像した以上に、辛い思いをさせてしまったか。 「ごめん」  大河は息を吐き出して脱力し、肩から力を抜いた。 「無事だったから良かったとか、そういう問題じゃないから」 「ああ」 「ほんと、びっくりしたってレベルじゃなかった。マジで心臓止まったから。寿命も十年くらい縮んだ。(いつき)さんといい美琴(みこと)ちゃんといい、俺、絶対早死にする。どうしてくれんの」  感情を押し殺したような淡々とした口調とは裏腹に、再び肩に力が入っていかり肩になる。 「悪かった」  ベコッと音がするほどペットボトルを強く握り、肩も微かに震えている。公園でのことを思い出しているのだろうか。 「絶対、もう二度とするな……っ」  そう絞り出された声は酷く苦しげで、宗史は目を細めた。 「……ごめん」  もっと、怒涛のように苦言や愚痴を浴びせられるものだと思っていたのに。こんなふうに責められる方が、よほど堪える。  大河はしばらく俯いたまま顔を上げず、また宗史も晴も、静かにそれを見守った。
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