1636人が本棚に入れています
本棚に追加
振り返れば、あっという間だった。
銀行に来る人々は当然、窓を隔てた向こう側に座る私達が「銀行に関する全てを知っている」前提で話を持ちかけてくる。お金を振り込みたい、口座を開設したい、資産運用の相談をしたい、両替に公金納付。あらゆる理由を携える彼らに、私達は迅速に応えなければならない。テラーがお客様を待たせることほど、命取りな行為は無いのだ。
「丁寧に、素早く」という相反した2つの言葉を掲げられながら、新卒時代、先輩にテラーとしてのいろはを叩き込まれた。
呪文のような金融用語が飛び交う中で、半泣きになりながら自分のマニュアルを毎日更新していくと、それらを綴ったファイルは広辞苑くらいの分厚さになった。
必死に、ただ目の前に降って来る仕事を捌くに注力していたら、気づけばもう3年目を迎えてしまうのだから社会人とは末恐ろしい。
時空が歪んでいるのではと思う時さえある。
「うーわ、混んでる」
「流石人気店〜」
支店の入っているビルを抜けて、徒歩約5分。
繁華街で賑わう通りから一本奥に入ると路地裏の隠れ家のようなそのお店には、既に外まで列が出来ている。いつもの光景に悪態をつく私以外の3人が、それでも最後尾に大人しく並んだのを確認して自分も連なる。
「キッチン・クジ」と言う街に愛される老舗の洋食屋さんは、こだわり抜かれた伝統的な味つけを受け継いでいて、どれも凄く美味しい。それでいてリーズナブルなので、うちの支店内にもファンが沢山居る。
こじんまりとした広さのお店で、平日ランチは12時を過ぎる前から争奪戦になる。こんな風に行列だって当然出来るし、その中には女性陣も多い。
レンガ調の壁がつくるレトロな外装も内装もとても可愛らしいことと、女性人気を裏付ける理由は、もう一つ。
「あ。皆さんこんにちは。いらっしゃいませ、先にご注文お伺いします」
「こんにちは〜!」
「いつもありがとうございます、お待たせしてすみません」
私たちにメニューを差し出して爽やかに微笑む、皺のないコックコートに身を包んだ男性。誰がどう見ても格好いいと頷くに違いない恵まれたルックスは、紳士な落ち着きと若々しい爽やかさを兼ね備えていて、みんな先程と声のトーンが明らかに変わった。
「今日、雅君もホールですか?」
「今日はオーナーが休みなんで基本的にあいつはキッチンですね。あれ、俺じゃ不満ですか」
「そんなわけないじゃないですか〜〜!」
「岳さんに接客していただけるの嬉しいです」
シェフの問いかけに対するみんなの返事には、語尾に全てハートマークが見える。女性人気を裏付ける明確な理由はもう一つ。オーナーの州さんに、今目の前に居るシェフの岳さん、そしてその息子さんである雅君。キッチン・クジを営む久慈家は全員が驚くほどに美形なのだ。
3人共にちゃんとあらゆる年層の固定ファンがついているから、更に驚くしかない。
最初のコメントを投稿しよう!